金森修『生政治の哲学』

必要があって、金森修『生政治の哲学』(2009)を読む。

生権力、生政治というフーコーとともに有名になった概念を、現代思想の中により広範に位置づけた書物。アレント、ネグリ、アガンベンなどの現代思想の大物における生政治を概念を取り出し、一方で、それとは異質な「パラ生政治」という自然主義的な問題の立て方とも対比させている。特に、アガンベンの「ゾーエー論」が注目されていて、『ホモ・サケル』とその現代的な様態から、「生きるに値しない命」から脳死患者、臓器移植、戦争サイボーグ、ES細胞まで論じる視座を与えている優れた書物である。

この書物が、歴史分析(と現代分析)のツールとして使えるだろうか?という点について、あえて批判的なことを三点あげる。
フーコー(「健康が語る権力」)にあって、金森『生政治の哲学』に欠けているものは二つあると思われる。それは、a) クロノロジー、b) 社会的な装置の分析である。
生権力のクロノロジーについては、18世紀のペストの消滅を重視しており、これは、私見によれば、生権力の構成に疾病構造が「一役買っている」ことを示唆した重要な指摘である。疾病構造の影響を生権力に読み込むことは、(皆さんが嫌いな)還元主義ではなく、社会/エコシステムを媒介にした力がひとつの要因になって生権力が形成されるという「構成的自然主義」であり、人間の生命とその政治を環境との相互作用の中で捉える「環境史的生政治」の視点である。
 社会的装置については、フーコーの概念は、救貧・病院・人口政策についての行政的な側面への広がりを持つ問題設定になっている。これは、抽象的な概念を厚みがある資料によって検証するという、歴史学の生命線といえる作業を担保していることを意味する。
 金森の概念は、確かに社会の中の現象を扱っているが、それは、どのような意味で、歴史(現代史)であり、社会の中に位置づけられるのか。技術の進歩以外の要因をどこに見出せばいいのか。強制収容所の中で起きた現象と、実験室の中で起きている現象と、市場メカニズムの中で起きている現象が、「同じに見える」という言い方は、重要な指摘であると同時に、あまりに多くを捨象した現象論になっていないか。

②金森のモデルは、その思想的洗練にもかかわらず、構造としては「ナチズムモデル」、あるいは「アウシュヴィッツモデル」に陥っているように思われる。
 その記述は、フーコーの生権力にナチズム批判の要因を見出し、そこに全体主義とナチズム批判を通じて思想を形成したアレントをかませ、アガンベンアウシュヴィッツ論を発展させるという流れになっている。すなわち、フーコーはさておき、アウシュヴィッツ批判の巨人たちから概念を取り出したうえで、第三章で現代に発展させる、「アウシュヴィッツ・モデルによる現代批判」になっている。これは、米本昌平が20年前に優生学研究のスタンスについて批判した、「ナチスを極北とし、それを基準にして現代を理解すること」と、どのように違うのだろうか?概念形成の道具立てとしては、同じではないだろうか?

③ゾーエーとビオスを対立させ、ゾーエーの現代を論じることは、本書の中核であり、もっとも魅力的な概念であると思われる。しかし、その一方で、これは、奴隷や古い精神病院の患者について、人間の尊厳が侵された事例を発見してその改善を唱える人道主義とどのように違うのだろうか?ゾーエーとビオスの対立は重要な概念であるが、一方で、金森の用語を(不正確に)使うなら、あるビオスと別のビオスの対立も、少なくともそれと同じくらい重要な概念ではないだろうか。科学と医学の現代史は、人間をゾーエーに落とし込むような生権力を発見し回避することを教えるべきなのか(形而上学的リスク論というべきだろう)、それとも、ゾーエーの奈落を意識すると同時に、あるビオスから別のビオスへの推移を検証し、それぞれの構造を示し、共存している場合には、それを選択できるような記述をするべきなのか。金森は、その選択は<希望の空手形>であるといい、「虚空の中を青ざめた相貌と共に戸惑いながら前進するという道」を選ぶのだろう。しかし、その道筋が、現代史における絶望の極である「アウシュヴィッツ・モデル」から引き出された道であることを考えると、その道が唯一の道であることは、再考の余地があると思われる。