ジンメル『ショーペンハウアーとニーチェ』

必要があってジンメルニーチェ論を読む。文献は、ゲオルグジンメルジンメル著作集5 ショーペンハウアーニーチェ』吉村博次訳(東京:白水社、1975)。

ニーチェについての尖鋭な批判。ニーチェはキリスト教が持っている「魂の固有価値」の仕掛けを理解せず、キリスト教の「神のまえの平等」の思想は、個人が持つ生をこの上なく高騰させた思想であるのに、その利他主義のみに注目して凡庸化する思想であるといった。その結果、ニーチェはキリスト教と同じ仕掛けから出発して、キリスト教とは正反対に神を否定するという方向に進んだのである。

必要な洞察は得られなかったけれども、少しだけ手がかりが得られたような気がする。

今日は少しだけ、私自身の研究についての与太話をさせてください。いつものように「必要があって」と書いたけれども、実は、ここしばらくニーチェで困っている。『善悪の彼岸』を読んでいるときに偶然見つけた一節が、私が二年くらい前から書いている論文と深い関係がある。というか、「まさか」というくらい内容が密接に関連している。私が書いている論文というのは、1930年代の日本の生理学についてのテクニカルな話だから、1886年のニーチェの著作に書かれている内容が顔を出すとは思わなかったし、なぜニーチェが、それから50年後に日本の生理学者が考えていた内容を的確に見透かすようなことを書くことができたのだろう。

その一節というのは、以下の通りです。

「今日のヨーロッパ人の特色を求めれば、それを『文明』とも、『人道主義化』とも、『進歩』ともいわれるであろう。あるいはまた、賛否は別として、ただ単に政治的方式をもってヨーロッパの民主化運動ともいわれるであろう。いずれにせよ、このような方式をもって示されうるすべての道徳的政治的前景の後ろには、一つの巨大な生理的プロセスが働いているのであって、これがますます流れはじめている。このプロセスとは、ヨーロッパ人の近似同化ということであり、風土的に階級的に制約された人種成立の諸条件から、ますます離れてゆくということである。すべての人間には彼の属する特定の環境があって彼の心身にその特性を刻印するものであるにもかかわらず、この特定環境からますます独立してゆくということである。すなわち、本質的に超国民的な一種の遊牧民がしだいに出現してきていて、かかるタイプの人間はその典型的な特徴として最大限の順応性と適応力をもっている。」

この「生理学的な順応性と適応力をもつ人間」という考え方は、大東亜共栄圏への移民政策を後押ししようと考えていた生理学者たちが作り上げた日本人論と同じである。偶然の一致にしては、あまりにできすぎている。ニーチェは偉大で現代社会の本質を見抜いていたとか、そういう話をしたいわけではないとしたら、どう考えればいいのだろうか。ボルヘスの『異端審問』にコールリッジのシナの宮殿の話があったけれども、そういうことになるのだろうか。