北原糸子『都市と貧困の社会史』

必要があって、明治初期東京の狂人収容についての史実をチェックする。文献は、北原糸子『都市と貧困の社会史-江戸から東京へ―』(東京:吉川弘文館、1995)。狂人ケアを論じたのはごく短い論文だけれども、重要なことを資料に基いて指摘している、ソリッドな仕事である。

重要なポイントだから、書いて憶えてしまおう。まず、狂人の管理は家族の責任であって、不良子弟の管理と同じ脈絡で、そして場合によっては同じ場所で行われており、そう行われるように定められていたことである。これを示す資料は二つ。明治11年(1878)の警視局布達甲38号で、これは瘋癲人の看護と不良の子弟の教戒を定めている法令である。もうひとつが明治8年の京都の在来療法の調査で、乙訓郡久世村の大日堂では、「善定」という70歳くらいの山伏がいて、癲狂人を引き受けると同時に放蕩無頼の輩も改心させていた。狂人ケアで有名な岩倉の大雲寺も、身持ちが悪いものを改心させていた。この不良の子弟というのは比較的富裕な家の子弟であっただろう。(ちなみに、富裕層の不良の子弟を収容するために狂人収容院の裏手に目立たないような建物を作ることは18世紀のオランダでも存在した。)

もうひとつ、憶えたいポイントが、東京の養育院の狂人室(日本の公立精神病院のプロトタイプである)の成立について。明治5年10月15日に、市中徘徊の乞食240人を非人頭長谷部善七に狩り込ませて本郷加州屋敷に仮に収容し、その後に126人を上野護国寺あとの養育院に入所させた。この126人のうち病者は86人、壮健なものは40人。このうち狂人は別の部屋に収容していたが、明治8年に東京府からの指示で、独立の狂人室を設けることとなった。一方、京都では徹底した欧化政策が行われ、西欧の壮麗な精神病院への憧れに基いて、在来の民間療法を廃止して京都府癲狂院を設立した。

東京で市中徘徊していて収容院へ狩り込まれた乞食はたった240人なのか。フランス革命前のパリだと、3万人程度が慈善病院に入っていた。