『中世の狂気』

必要があって、中世ヨーロッパの狂気についての百科全書的な書物を読む。文献は、ミュリエル・ラアリー『中世の狂気 十一~十三世紀』濱中淑彦監訳(京都:人文書院、2010)。

監訳者の濱中は、医学史の世界では、シッパーゲス『中世の医学』『中世の患者』などの医学史の書物の翻訳で知られている。これらの書物は、新知見や明晰な議論を出すというよりも百科全書的に色々なことが書いてあって、史実をチェックしたり、背景となる知識を蓄えたりするのにとても重宝である。今回の訳書も似たところがあって、神学、デモノロジー、医学、文学作品(トリスタンとかランスロットとか)、法律、それから数多くの図像資料(写本の装飾画が多い)などの多様な資料を使って、中世の狂気の理解と対応には、異質で矛盾するような柱が併存していたことを示した百科全書的な本で、「濱中好み」の本である。たとえば、狂人は悪魔に憑かれたもの、罪を犯したものとする考えと、狂人は世俗の小賢しい知恵をもたない神に愛された存在であるという考えは完全に併存したし、宗教的な治療が有効であるという態度と、医学の中で薬物を用いる方法も併存した。狂人を排斥して場合によっては監禁する方向もあったし、逆に狂人を取り込んで道化的な役割を負わせたりすることも存在した。「宗教から世俗へ」とか、「併存から監禁へ」とか、その手の超シンプルな過程は、狂気の歴史になかなか簡単に見つかるものではない。

日本語で読める中世の狂気の歴史の総合書としては他に類書がないし、実は、英語でもこれに対応するものを私は知らない。その意味で、この書物が訳されたことは日本の研究者にとって大きな財産である。多様性を的確に捉えるために、構成をきちんと考えているのもいい。具体的な記述の内容は「このようなことがあった」という記述が中心でやや淡々としているけれども、この書物は、章立てと構成のセンスが光っていると思う。この本の内容が頭に入っているかいないかで、近世の理解がすごく変わってくる。必読というか、中身を頭に入れなくてはならない書物である。