埼玉の国保直営診療所

必要があって、戦時期の保健医療問題を、厚生省や国策レヴェルではなく、地域社会の側から検討した論文を読む。文献は、鬼嶋淳「戦時期の保健医療問題と地域社会―埼玉県入間郡富岡村を中心に―」『史観』No.152(2005), 13-35.

昭和戦前期の国民の体位向上は、国と保健衛生行政の中心的な目標であり、そのためにさまざまな「福祉的な」政策が行われ、一方で健康を強制する強権的な政策も行われた。これを国家の側からでなく、地域社会の側から見ると、興味深い図柄が見えてくる。この小論は、埼玉県入間郡富岡村における保健衛生行政の発展の経緯を研究したもの。

1937年に富岡村では政変が起きた。それまで村の指導的な役職を占めていた政友会系で地主・自作農上層からなる「旧勢力」にかわって、小作農出身で民政党系の新井万平が村長代理となった。新井が打ち出した新しい政策の目玉は、医療政策であった。当時人口は4500人だったにもかかわらず無医村で、埼玉県の巡回診療も1936年に廃止されていた富岡村に、国民健康保険を使った国保組合を導入する方向性を打ち出した。これは、「一部有産階級」しか医療の恩恵を被ることができなかった開業医の私的診療制から、誰もが医療を受けることができる体制への移行であるとして、村人から圧倒的な支持を受けた。それと同時に、国民の体位向上と健康増進という国策にもマッチして、国と県の双方から支持を受けた。県は、新井が入間郡医師会と保険診療の点数単価をめぐって争う時にも新井と村の側に立って調停しようとし、医師会との合意に達することができなくなっても、国保の直営診療所を作る方向に国と県は助力した。直営診療所は慶應から医師を招くなど充実したものであったが、新井が不祥事で失脚し、旧勢力が政権を回復すると、診療所は推進力を失い、負担が重すぎてたこともあって、診療所は2年足らずで閉鎖され、入間郡の医師会が望んだ額で保険診療契約を結ぶことになった。