ほがらかな景観と精神病院

新着雑誌からもう一つ。19世紀の精神病院の景観についての論文。文献は、Hickman, Clare, “Cheerful Prospects and Tranquil Restoration: the Visual Experience of Landscape as Part of the Therapeutic Regime of the British Asylum, 1800-1860”, History of Psychiatry, 20(2009), 425-441.

20世紀前半の日本の精神病院においては、精神病院から見る風景が治療上の重要な効果を持つというのは、必ずしも重要な要素ではなかったように思う。たしかに、たとえば武田泰淳の『富士』に風景の描写はあるが、扱いは軽い気がする。これは、私が、広大な敷地に贅沢に建てられた松沢病院ではなく、急速に都市化する東京近郊の狭い敷地にごちゃごちゃと建物が建て増しされていった私立の精神病院を研究しているからかもしれない。

19世紀前半のイギリスにおいては全く事情が違った。緩やかな丘の上に建てられた精神病院のランドスケープには、ヴィクトリア朝人の「夢」が詰められていて、医者たちはそれを雄弁に、時に陶酔するように語った。(W.A.F. Brown, What Asylums Were の一節は、精神医学者たちが白日夢を見ていたことの証左である。)自然が持つ秩序と美しさが産業社会の文明で心を病んだ患者に作用して精神病を治すというのは、それがEBMで立証できるかどうかは別にして(笑)、ヴィクトリア人が本気で信じていた神話であった。日本でも結核の保養所については、ある程度この神話が機能していたのかもしれない。

この論文は、19世紀精神病院の景観論という豊かな主題について、アディソンから話を説き起こして、ワーズワースたちのロマン派や、19世紀の医者たちの書いたものから、風景の精神医学を再構成している。たくさん情報がつまっていて、有用な論文である。

患者をcheerful にするというのがポイント。「ほがらか」とでも訳すのかな。最近の訳語をあてると「前向き」ということに近いのだろうか。