生ワクチンと「死んだ」ワクチン

狂犬病のワクチンについての論文を読む。Chakrabarti, Pratik, “’Living versus Dying”: The Pasteurian Paradigm and Imperial Vaccine Research”, Bulletin of the History of Medicine, 84(2010), 387-423.

パストゥールによる狂犬病のワクチンの製作は、近代医学の輝かしい勝利の一つで、これに言及しない医学史の概説書はないだろう。しかし、このワクチンが安全なものとして確立されるのは、インドに駐在していたイギリス軍医の David Semple が作り出したセンプル法によるワクチンである。そこにいたるまで、フランスのパスツールの原理に忠実な「生きている」素材からワクチンをつくる学派と、イギリスのライト法に由来する化学処理などをして「死んだ」素材からつくる学派の二つの長い論争があった。この論争を丁寧に吟味した論文で、実はワクチンのもとになる素材が「生きている」「死んでいる」という概念はあいまいなもので、便宜的に引かれた線引きであったという。

論文のこの部分は素晴らしい。しかし、この論文は、序と結論に、木に竹を接いだような奇妙な議論をつけている。その議論とは、Pastuerizationのブルーノ・ラトゥアを批判する議論で、生きていないものにもアクター性を与えようというラトゥアの議論は、生きているか・死んでいるかどうかという問題についてのナイーヴな前提に基づいている。この論文は、生死の区別が構成されたものであることを示したんだという形で結論している。正直、違和感がある問題設定の仕方だった。この論文が教えてくれるのはそういうことではないし、ラトゥアの議論は、生ワクチンと処理ワクチンをめぐる議論によって強くなりも弱くなりもしないように思う。