入江泰吉『私の大和路』

無駄話

先日亀井勝一郎の『大和古寺風物詩』をアマゾンで注文したときに、ついでに推薦されて買った書物。入江泰吉という人物は奈良の写真をとる写真家として名前を知っていた程度だったけれども、先日、修学旅行で興福寺の「阿修羅」にやられてしまった娘と一緒に、『芸術新潮』の阿修羅特集に載っていた何人かの写真家がとった阿修羅を比べていたときに、入江の阿修羅が一番いいなと思った。私は土門拳が好きで、復刻の『古寺巡礼』を持つほどなのに、土門の阿修羅よりもずっといいと思ったので少し驚いて、記憶に残っていた。

これは安価な文庫本で、一枚の写真を見開き二ページで納めているものも多く、写真集それ自体はよくないが、エッセイや白洲正子の随筆、本人の文章などがあって面白い。戦後に、アメリカが奈良の仏像を接収して持って行ってしまうのではないかという恐れから仏像の写真をとりはじめたことなど。そして、奈良の寺と風景に、敗戦直後の日本人が「国破れて山河あり」を必死になって読み込もうとしていたことが痛ましく、そのときに作られた写真の文法、奈良のイメージが現在でも生きていることを実感した。奈良の人には申し訳ないが、他のお寺の修復や復元はいいけれども、平城京の復元についてポジティヴな気持ちになれないのは、そこにバブルの日本を感じてしまうせいで、これは、戦後に作られた「国破れて山河あり」をぶちこわしにするからなのだと納得した。写真の撮りかたについては、光と影が最高の状態になる決定的瞬間を求めて何時間も待つというのはわかるが、入江が、被写体の細部をスケッチしていて、そこから写真の構図をくみ上げていたとは想像しなかった。

高畑に、入江泰吉記念写真美術館まであるんだ。今度奈良にいったときに、行ってみよう。