先日読んだ亀井勝一郎『大和古寺風物詩』をアマゾンで買った時に、堀辰雄『大和路』もどうですかと進められた本。ずっと前に、父親の書棚の日本文学全集で読んだけれども、大概忘れていた。新潮文庫に、ほかの評論とともにおさめられている。
堀辰雄の『大和路』は、彼が奈良に滞在していた時に、東京の奥さんに送った手紙に託して随想を語るという形式になっている。当時の堀は、折口信夫の作品や万葉の解釈に刺激されて、古代に題材をとった小品を書こうとした。それは、「牧歌的」と訳されている「イディル」という言葉のもともとのギリシア語の意味に忠実な、素朴な人たちが出てくる「小さな絵」になるような小説だという。その作品のインスピレーションを求めるために、奈良のあちこちに行き、いろいろな書物を読む。今日は廃寺の海竜王寺に行ったとか、ソフォクレスの悲劇を読んだとか、こんな小説を書こうと思うとか、古代のことを勉強していないから伊勢物語風になってしまうかななどなどの思いが綴られている。
自分がこれから書こうとしているものについて、ああでもないこうでもないとぐだぐだというのは、学位論文を仕上げている大学院生だけでよくて(笑)、プロの物書きが、そのぐだぐだを作品にするというのは、正直言って私は好きでないけれども、堀辰雄にも許嫁の死とか自分の結核とかいろいろな事情があるのだろうし、また、そういう著作者の職業倫理とかの話をするべき場ではないから、それを我慢しさえすれば、温かい人柄をしのばせる繊細な洞察が随所にちりばめられた、素敵な随筆だった。馬酔木の白い花の重みを手で測っているような奥さまの話もよかったけれども、唐招提寺の金堂のエンタシスの柱に触れた時の、日の光を木に含んだようなぬくもりを感じた部分は、とてもせつなかった。
堀が滞在したのは奈良ホテルで、当時の様子がそのまま残されていて、それを素敵だと思う人は思えばいいけれども、レストランで出すカレーは美味しくない。