古代の疫病と律令国家

必要があって、古代の疾病についての論文を読む。文献は、有富純也「疫病と古代国家―国分寺の展開過程を中心に―」『歴史評論』No.728(2010), 33-45.

天平7-9(735-7)年の天然痘の大流行においては、朝廷が本格的な対策を立てて国司に指示をした。この対策は長く国家による疫病対策のテンプレートとして用いられて、300年後の1077年に疱瘡が流行したときに、天平時代に出された官符が参照されて対策がたてられた。(これは私の補足だが、19世紀にコレラが流行した時のヨーロッパ国家も、これと同じことをした。すなわち、数世紀前のペスト流行の時の対策を参照したのである。) このときの方法は、神社奉幣、金剛般若経読経、賑給、湯薬の提供、道饗祭、免税、恩赦などである。これは、百姓に対して、物質的・精神的な恩恵を与えるものであり、天皇が「撫育百姓」を行わねばならないという考え方を疫病で苦しんでいる百姓に適用したものである。このような撫育政策は、8世紀には盛んに行われたが、9世紀から10世紀にかけて段階的に放棄されていった。撫育は国司にゆだねられるようになり、旱魃に対する対策は国司に任せられるようになった。しかし、疫病においては、11世紀になっても、国家が何かを行うというパターンが見られた。これは、日本列島に何らかの危機的な状況が生じた場合、「律令国家支配理念」を隠し持っていた朝廷・天皇が一時的に律令国家の面貌をみせるということであった。摂関期の国家は、この律令国家支配理念を常に掲げているわけではなかったが、必要に応じてその性質を利用しつつ列島を支配したのである。

とても参考になった。