「塩の道」

必要があって、宮本常一『塩の道』を読み直す。文献は、宮本常一『塩の道』(東京:講談社学術文庫、1985)

本当に必要なのは塩の不足と病気について触れた箇所だったけれども、そこは宮本自身はたいしたことを言っていなくて、イザベラ・バードに言及して、それを塩の不足のせいにしているだけだった。それよりも、20年以上を経てあらためて読み直してみたら、すばらしい広がりを持っている構想であることに感心した。文章自体は中学生でも読めるような簡単なものだから、当時、文章や概念の意味が分からなかったということではないだろう。歴史研究の視点についての構造的なものをやっと捉えることができるようになったということだろうな。

「塩の道」は、いま流行りの環境史の原型となる視点を持っている。「塩」という地球上に偏在する自然資源がどのように入手され運搬されたのか、人間の技術と経済、自然の地質と地形、そして植物と動物はどのようにかかわったのか、という視点である。

日本の塩は基本的に海水からとっていた。縄文以降から平安まで、海水を土器に入れて煮詰めて作っていたと考えられる。土器の塩焼き壺はすぐ壊れるから、のちに、鉄の釜や貝殻や石を粘土で固めた釜も用いられた。鉄の釜を作るためには鉄を産しなければならない。中国山地のような大きな鉄の産地を後背に持つ瀬戸内では鉄で焼いたから沢山塩を生産できた。(瀬戸内の鉄釜は、鉄で塩を焼くと赤っぽくなって嫌われるという理由で、石釜にとってかわられた。)東北地方でも鉄の産地の近くには鉄釜で塩を煮る浜があった。北陸地方にもあったが、これは、近江に産する良質な鉄を加工して鋳て釜などを作る技術を持ったものが若狭に行き、若狭から北陸に広まったものであった。

これらはすべて浜の話である。浜では、干潟ができる地形では、干潟にはいった海水に日が当たって水が蒸発すると、砂の表面に塩を多く含まれる。その塩混じりの砂をとって、もういちど海水を入れて、それを釜で煮詰めると塩がとれる。しかし、山の人たちも、なんとかして海水から塩を得ていた。越後の小俣から奥にはいった雷という地域では、山にたくさん生えている木を使って塩を得ていた。山の木を切って、雪が解けて川の水量が多い時に、それぞれの家の目印をつけて下流に流す。途中、木が引っ掛かったら、それを落としながら、木を海辺の河口まで流し、そこで木を引き上げ、その木を燃料にして塩を焼く。そのうちに、木を流して川下の人に委託して塩を焼くようになる。川下の人たちも塩焼きの燃料のための木が必要だから、彼らの分も流してやる。江戸時代になって瀬戸内海の塩を買うようになると、今度は木を薪にして売って、その金で塩を買う。瀬戸内の塩に圧倒されて、かつては塩を売り歩いていた北陸の地域では、その行商力を利用して毒消しという薬を売ってみたり、大阪からテグスを輸入して釣り糸に加工して売ったりしたという。

瀬戸内からの塩を港から山に運ぶのには、牛が使われた。馬とちがい、牛は野宿することができる。馬は馬宿などでないと夜を過ごせないから、宿代がかかる。また、馬は専用の餌が必要だから餌代が別途かかるけれども、牛は道端に生えている草を食べながら移動することができる。牛は力があるから急な坂道を登ることもできる。だから、塩の道の最後は、街道とは別で街道の横を、道草を食いながらすすむ牛によって歩まれたのである。

限られた箇所にしかない鉄鉱資源や山に生える樹木、それぞれ生きものとしての特徴を持っている牛や馬という動物と、それぞれが食べる草という植物。これらを社会がどう組み合わせて、そのすきまを技術や経済で埋めて、最終的に塩を得たのかということを描いた講演である。