19世紀前半の「ヒステリー」患者

1820年代の後半につくられたヒステリー患者の症例誌を復刻して長い解釈を付けた書物を読む。文献は、Goldstein, Jan, Hysteria Complicated by Ecstasy: the Case of Nanette Leroux (Princeton: Princeton University Press, 2010). 著者は19世紀フランスの精神医学・心理学についての優れた書物を書いている実力者。

1820年代のフランス・サヴォイの農村で18歳の娘が奇妙な病気にかかった。もっとも特異な症状としては、当時は「感覚移動」と呼ばれていた、感覚器官の能力が身体のいろいろな部位を移動する現象があった。だから、指の先端に聴覚が宿ったりするようなことがあった。これは当時の診断でも「ヒステリー」と呼ばれていたが、シャルコーの時代の医者なら過去のトラウマに原因を求めただろうし、フロイトであれば性的なトラウマを求めたであろう。実際、村の警官にセクシャル・ハラスメントを受け続けていたから原因としても性的なことはあるし、治癒についても、彼女が入浴中に、自分で性器の上に封印蝋をおいて、グラスを左の乳房の上におくと、「まるで電気の炎のように」衝撃が体を走って、すっかり病気がよくなったというエピソードは、性的な解釈ができるどころか、もろにエロティックと言ってもいい(笑)。

しかし、このような性的な解釈は、当時の医者たちの解釈ではなかった。そして、フランス革命の後の医学界において、宗教との関係を定めることと、政治的・社会的な立ち位置を定めることが不可分に結びつけられていたことを反映し、医者たちの間でも、「ナネット・ルルー」と呼ばれた症例をどのように解釈するかということで意見の違いがあった。簡単にいうと、啓蒙主義の動物磁気・身体的な解釈をするリベラルな派と、革命後の旺盛と教会の復帰に親和性をもつより心理的な解釈をする保守派であった。

しかも、この症例誌は、その症例について意見を異にする医者たちが書いたことが混在して存在する文書であった。いわゆるハイブリッドな史料である。医者たち以外にも重要なプレイヤーの存在も知られている。それらを批判的に考究し、症例誌を復刻したのが本書である。

患者の記録を見ている医療の社会史の研究者にとっては、このような複雑性を持っている資料は、馴染み深いと同時に解釈や解析に慎重にならなければならない。それを使って、他の資料や背景と重ねて一級のマイクロヒストリーを仕上げ、しかもそこでフーコーフロイトを共存させる方法論を論じるあたり、ゴールドシュティーンの手さばきが冴える作品だと思う。症例誌を使いたい学者は、一冊一冊のカルテを読み解く方法の一つのお手本として、必ず読むべきだろう。