エイズとジェネリック薬品

必要があって、エイズとジェネリック薬品についての書物を読む。文献は、林達雄『エイズとの闘い―世界を変えた人々の声』(東京:岩波書店、2005)

エイズの新薬は特許・知的所有権の関係で高価であるが、世界のエイズの大半が発展途上国で発生しているから、貧しい国においても治療ができるようにするためには、ジェネリック薬品を利用できるようにしなければならない。しかし、製薬会社のおもわく、アメリカの産業政策、そしてWTOの規制により、ジェネリック薬品の生産は裁判や経済制裁の危機に立たされていた。それを、両国の当事者を中心とするNPOが声をあげて活動をはじめ、知的所有権を守るために公衆の健康が損なわれることがあってはならないという方向に転換が起きた事例を物語る。もともと物語だから、年代にはあまり注意して書かれていないけれども、内容から察するに、これは、2000年から2001年くらいの出来事なのだろう。

学者にとって、アクティヴィストが書いたものというのは、往々にして両義的な感情を呼び起こすものだけれども、この書物もそうだった。筆者はこの内容を話を大学生にするときには、「特許さん、アメリカさん、WTOさん、ブラジルさんとタイさん」などが登場人物(キャラクター)として出てくる寸劇を見せるそうである。私が医学史の話をするときには、たとえ相手が小学生であったとしても決して使うことがないだろう「寸劇」という擬人化したテクニックを、大学生に対して使うことには、もちろん、強い強い違和感を感じる。非常勤先の大学から、「説明のために、ガレノスさんとヴェサリウスさんと体液論さんが出てくる寸劇で医学史の講義をしてください」と言われたら、申し訳ないけれども、それはお引き受けできないむねを伝える。今の日本の大学教育は、たしかに色々な根本的な再検討を必要とする時期にきているが、高等教育と言うのはそういうものではないはずだ。

しかし、その寸劇という講義の形式に象徴されるさまざまな特徴は、私たち学者が持たないものである。分析と議論ではなく語りと行動、知性ではなく勇気、無限の「でもしかし」「一方で」ではなく、弱者と強者・善人と悪人をはっきりとわけたシンプルなシナリオ。一言でいう「熱さ」であり「一途さ」である。私は、学問をしているという言い訳のもとに、その熱さに背を向けて、時として嘲笑って、現実から離れた空間で話をひたすら複雑にすることを自己目的化していないのか。この手のアクティヴィストの書物で優れたものを読むと、いつでもそういう疑問を感じる。

長いことこういう疑問を抱いて、私は何もしないでいた。でも、その一方で、おぼろげだけれども、私の中で何かが形を取り始めているのも事実である。寸劇ではないかたちで、大学の教室という限定を超えた形で、何か、自分で納得がいくものができるかもしれないと考えるようになった。そのときには、このサイトを読んでくださる予想外に多くの方が、無言の声援を与えてくれましたように思います。どうもありがとうございます。