明治の神経衰弱

必要があって、明治の神経衰弱について書いた書物を読む。文献は、度会好一『明治の精神異説―神経病・神経衰弱・神がかり』(東京:岩波書店、2003)

著者はちょっと不思議な人物で、もともとは英文学者で、19世紀のイギリスの性の問題についての新書や、近世の魔女狩りについての新書、最近ではイギリス帝国とユダヤ人についての書物を出版している。私は性の本しか読んでいないが、研究書というよりも、雑学的な要素を織り交ぜて闊達に語った一般書である。この書物も、明治の神経病・神経衰弱について、広範な資料を渉猟してそれらをまとめたものである。そういった語り口の書物そのものには問題がないけれども、この本は、正直言って、あぶなっかしくて読んでいられないという印象を持った。その中で、第三章「神経衰弱に明治の精神を読む」は、説得力を持たせて、おそらく正しく事態を言い当てているような印象を持った。

話のコアは単純で、神経衰弱という非常に複雑な事態の一つの側面を捉えているのだと思う。明治という年代が終わりに近づくにつれて、その立身出世の価値観と齟齬をきたすような感覚が日本の国民を覆う。その感覚をとらえたフレキシブルな診断名が「神経衰弱」であったという。神経衰弱 (neurasthenia) という病名は、それ自体としては、19世紀後半にニューヨークのジョージ・ビアードによって作られた。アメリカの競争社会の中で神経が過敏になった人々が感じる症状に名称をつけたものである。これはいったんドイツに渡って(比較的)精緻な疾病概念となり、日本のアカデミックな精神医学・医学にも導入された。

さまざまな病名の転換を経たあと、世紀転換期に、神経衰弱と言う診断/病気は、明治日本で大流行した。1880年には帝大のベルツの内科外来患者1534人のうち107人は神経衰弱の診断で、「快脳丸」などの広告もあらわれるようになる。日露戦争後には、タイトルに「神経衰弱」を冠した書物も多く出版されるようになる。精神病院である巣鴨病院の外来や、東京脳病院では、患者の10-30%が神経衰弱の診断を受けるようになる。一高の藤村操は「厭世感」で1903年に華厳の滝に飛び込んで自殺し、それに追随するものも現れる。これらは立身出世に空虚を感じ、疲労感に心身を蝕まれたものたちである。日露戦争は、明治国家が力を絞ってその大きな目的をなしとげた一大事件であり、その戦争中ですら、現場の兵士や、兵を徴発された村は疲弊していた。これが人々に疲労感をもたせ、神経衰弱と言う「使い勝手がいい」診断がつけられたのである。

「つまり煩悶青年を定義するなら、明治日本が日英同盟を結んで、日露戦争へとむかい、やがてそれに勝利して、国家の栄光がまるで真昼の太陽のようにかがやいてみえたころ、多くの明治人が「一等国になった」という意識に酔いしれていた中で、その国家主義的な栄光に飽き足りない、あるいは幻惑されない、内面的・個人的・反省的で、憂鬱だった一群の男女青年たち。それが煩悶青年であった。」