下層社会から離脱する日本

中川清『日本都市の生活変動』(東京:勁草書房、2000)をチェックする。

明治初期の社会経済計画『興業意見』では、人民を上中下の三層に分けたときに、その56%は下等に属すると判断し、19世紀末には、横山源之助は、日本社会の大半が下層社会によって覆われているとみなしていた。そこから、1970年代には国民の90%が自分が中流であるとみなす社会に変化してきた。この過程は、どのように起きたのかということを問う研究である。

19世紀の末から、下層社会からの離脱が行われるが、そこでは新中間層も労働者階級も、なんらかの形で下層社会と交差しながらそこからの離脱を模索していた。1920年代から30年代にかけて、両者は、職場では「社員」と「工員」というかたちで身分的に区別され、両者はそれぞれ棲み分けて独自の街区を形成していた。ここで、新中間層の上層に接する日本の中産階級(「ミドルクラス」)は、西洋の社会史で指摘されるような指導的な役割を果たすことはなかった。中産階級は、家計の水準や世帯のありかたにおいて、持家で女中をかかえ財産収入があるなど、当時の一般生活と隔絶しており、変動を経験している階層のモデルにはなりにくかった。もうひとつは、中産階級は、階級としても個人としても、安定したアイデンティティを確立したというより、伝統と革新、日本・アジアと欧米という対照的な理念に引き裂かれて葛藤していた。

近代日本の経験は、特定の生活モデルが存在し、それが目指され伝播するという階層構図とも、また、階級的な対抗関係において、固有の生活が世代的に再生産されるという構図とも異なっていた。下層社会からの分離を模索し、相互に共謀しながら離脱と上昇をはたし、それぞれに傾向的な差異を構造化するという、下から上への相互関係においてつくられてきた。しかも、こうして形成された階層固有の生活は、親子双方にとって、世代的に維持し再生産するべきものとしてよりは、可能であればそこから脱すべきものとみなされてきた。 51-58.