必要があって、布施昌一『医師の歴史―その日本的特長』(東京:中公新書、1979)をチェックする。
「医は仁術」という言葉の意味についてまとまった記載がある書物である。貝原益軒は、彼自身が儒学者であり、「医は仁術である。仁愛の心を基本とし、人を救うをもって志とするべきである。わが身の利義をもっぱらに志すべからず」という。儒教が社会の根本を規定する思想であった時代であるから、他の医者も同様のことを言っていた。香月牛山は、貝原益軒に学んだ儒者・医者であるが、彼も「医師は、ただ人の病を治そうとだけ思い、仮にも謝礼に心をやるべきではない」という厳しいことを言っている。
この状態は、医療行為には正式の価格がない状態を作り出した。価格はなくても「礼」がある。ゆたかなものから礼を多くもらい、それを貧民の治療にあてるという。幕府も諸藩も、「医は仁術」のキャッチフレーズに該当する、いかなる意味での医療政策ももたなかったにもかかわらず、この言葉を一種不可侵的に扱って、医者を褒賞したり、督励したり、叱責したりする際の殺し文句に用いている。いったい、幕府や諸藩の治民方針は、封建体制の根幹に影響する事件に対しては、仮借しなかった。親殺し、主殺し、年貢未納などの罪は、厳罰に処した。そうでないことがらについては、自治責任主義であった。それで、たとえば医療の場合、医師がどんな暴利をむさぼうろうとも、当局の感知するところではなかった。しかし、医師と患者のあいだにいざこざがあって法廷沙汰になると、医は仁術が幅をきかした。寛文年間の江戸で、ある「癩病」患者が金を払わないと医者に訴えられたときに、その訴えを受けた江戸町奉行の渡辺大隅守は、医者をはったとにらんで、早く金を取ろうとするというは、医師の本意に違える不届き者めと叱責し、名主・五人組に預けたという。つまり、政治における「医は仁術」の強調は、医療政策皆無の為政者が、意識的・無意識的に、当時の支配的なイデオロギーにその正当性を依存していた医師を操縦することに他ならなかったのである。