トマス・モア『ユートピア』

ユートピア人の思想と倫理は快楽に重きをおいた、ストア哲学の影響が強いものである。その中で、人を真に幸福にする快楽と、かえって苦しみと不幸を与える虚妄の快楽が区別される。後者は、放埓無残な情欲の誘惑によるもので、美しい衣装を着たい、愚にもつかない尊敬を受けたい、珍しい宝石を所有したい、ばくちをしたい、狩猟をしたい、などがあげられている。真正な快楽は、肉体の快楽と精神の快楽にわかれる。肉体の快楽は、食べたり飲んだり排泄したり生殖したりという、快感が感覚的に感じられるものがまずあげられているが、これよりも上位に、肉体が静かに調和した状態の快感が置かれる。これこそ、健康が与える快楽に他ならない。

健康が快楽かというのは、ユートピア人の間でも議論になった。欲求の充足が快楽を与えることは言うまでもないが、欲求を充足し終ったあとは快楽なのか。モアとユートピア人たちは、それに「しかり」と答える。

健康を「快」としてとらえて、それを増進することが厚生行政の目標であるという功利主義的な思想は、日本の衛生行政だと、大正から昭和にかけての論説で現れるのを目にしたことがある。これとの関係で、モアも似たような議論をしておくことを覚えておこう。