病院という空間の公的・私的性格

必要があって、明治の病院を論じた論文を読む。文献は、Burns, Susan, "Contemplating Places: The Hospital as Modern Experience in Meiji Japan", in New Directions in the Study of Meiji Japan, edited by Helen Hardacre and Adam L. Kern, 702-718. (Leiden: E. J. Brill Publishers, 1997). 

病院の社会史というより、病院を舞台にした作品や随筆などを分析して、その空間の性格を論じたもの。もともとは国学の研究から出発した学者だけあって、テキストの複雑な構造などを読み取る力があって、とても面白かった。近藤常二郎『仰臥三年』、尾崎紅葉『青葡萄』、島崎藤村『或る女』、石川啄木『病院の窓より』、国木田独歩『病床録』、正岡子規『病床六尺』などが分析されている。

日本にはもともと病院という制度がなく、幕末以降に導入された病院は、新治療を求める富裕な階層が利用する特権的で「私的な」空間と、避病院という形で発展した病人を閉じ込めて社会と国家という「公け」の利益を守る空間という二つの層に分かれていた。避病院については、尾崎紅葉の『青葡萄』が、コレラにかかった患者と、その家の主人の悩みを描いているが、そこで、警察に患者を見られて、政府と社会に迷惑をかけている犯罪人のような気がしたといっている一方で、政府の政策で個人に迷惑がかかっているということを言っていて、公的な力と私的な力が交差する場として病院を考えることができる。近年終末医療で人気が出ている近藤常次郎は、『仰臥三年』のなかで、私立病院は金をむしり取る遊郭のようで、公立病院は監獄のようだといっている。正岡子規などには、これは病院ということではなくて自宅の病床であるが、有名な「病床六尺、これが我が世界である」と書いて、日常の雑事にとりまぎれない自省を得ることができる特権的な空間として病床をとらえている。いつのまにか、話が病院から病床へと移行しているところは、もっと詰めなければならないところだけれども、このリサーチテクニックは、目からうろこがおちた。これは、テキストから抽象的な概念を読み取る力がある研究者でないと使えないものだと思う。