大蔵永常『広益国産考』

必要があって、岩波の『近代思想体系』に収録されている『広益国産考』の第一巻を読む。豊後の国の日田で生れた農学者、大蔵永常が晩年に記した農学書の集大成で、この書物の最後の巻である第八巻が出たのは永常が92歳の時だった。

国を富ませるには、まずは下民を賑わして、しかるのちに領主の益となることを考えなければならない。定まれる作物の他に別の作物を作ればいいのである。桑を植えて養蚕をすること、楮を植えて紙を漉くこと、ハゼノキを植えてろうそくを作ることなど、みなこの例である。しかし、土地ごとにできる作物も違い、どの土地でも同じものができるわけではない。また、国産をこしらえれば国が富むからといって、領主が役所を作って奉行をおいて掛りの役人をおいて、他国から原料を仕入れたり人を雇ったりして国産を推奨することは、かえって損になる。国産は、農民が本業のいとまにして稼ぎにするものである。10月までに麦をまき、冬には紙を漉き、3月までに麦を収穫し、それから田植えをし、8月にはまた紙を漉き、秋には稲を収穫して麦をまき、また冬の紙漉きをはじめる。家の人数が多いと、このように本業と紙漉きを組み合わせることができるのである。

同じような方法で栽培して農民の利益となる薬の原料があげられているかと思って調べたというのがもともとの動機である。たしかに国産として薬の原料も上がられているかれども、これが、比較的少ないという印象を持つ。大和の国・宇多のあたりの「当帰」「芍薬」と、豊後岡領の「川芎」である。それぞれ「薄い土地」で作って農家に利をもたらすものであったと書いてある。この「薄い」というのは、地味が悪いという意味だろうか、実は、「地味」というのも、私はまったく分かっていない概念だけど。

江戸時代の薬材の生産については、私は何も知らないが、幕府や藩などが作った「薬園」における生産を中心にイメージしていた。もう一つは輸入薬である。それと、地方で農民が本業のいとまにつくったような当帰・芍薬などはどのような関係にあるのだろう。それとも、もともとは薬園から始まって、農民の副業になっていったのかな。