サドより抜き書き

「大勢の男に続けて尻のなかに埒をあけられるのも、よいことではないね。この腎水の混淆は、想像力にとっていかほど楽しくとも、健康のためには決してよくないのだ。放射液はその都度、体外に放出した方がよろしい」
「でも、その放射液が体内に入るべきものだとすれば、そんなことをして棄ててしまうのは、罪悪ではないかしら?
「何を言っているの、お馬鹿さんね!どんな方法を使ったにしろ、男の精液を通路からそらそうとするのは、ちっとも悪いことじゃないわ。なぜかといえば、繁殖は少しも自然の目的ではないからよ。それはせいぜい自然の寛容でしかないわ。あたしたちは子供などつくらない時の方が、自然の意志をはるかに忠実に履行しているのよ。ウージェニィ、あなたも、この繁殖といういやらしい行為の断固たる敵になってちょうだい。」サド『閨房哲学』澁澤龍彦訳(東京:角川文庫、1976)、111-2.

「人類を繁殖させるためにある精子の浪費、それこそが、あるとすれば唯一の罪悪だと言うんだな。その場合、もし精子が繁殖だけの目的でおれたちにそなわっているのならば、あんたの言うとおりおれもその罪を認める。精子を繁殖からそらすのは侮辱罪になる。だが、もし自然が精子をおれたちの腰に蓄えたとき、そのすべてを繁殖だけを目的としたのでは決してなかったと証明されるならば、もうそうなら、テレーズ、それがここに漏れようとあそこに漏れようと、どうでもよいことじゃないか。そのとき精子の使い方を変える者は、精子を少しも使わない自然と同様に、悪事をはたらいていないことになる。ところで、どんな場合にも、自然は浪費を行っているじゃないか。だから、それを見倣うかどうかはおれたち次第というわけだ。」『ジュスティーヌまたは美徳の不幸』74.

「テレーズ、だから、太古の欺瞞の産物でしかない来世への期待や不安におびえるには及ばないぞ。とりわけ、嘘で固めたもので自分を抑制しようなどとはしないことだ。おれたちが死ぬと、つまりおれたちを形づくっている要素が全体[=世界]の要素に合体すると、おれたちは賤しい生の物質の微小な部分と化して永久に消滅し、生前の素行がどうであったにせよ、一瞬、自然のるつぼを通り抜け、別の形をとってそこからほとばしり出る。」(『ジュスティーヌまたは美徳の不幸』89-90.

テレーズ、ぼくたちが他の人間と同じようにつくられていると思うなよ。造りがまったく違うのだ。神さまはおれたちをおつくりになるとき、おまえたち女の場合にはヴィーナスの神殿を覆いつくすあの敏感な膜で、おれたちのセラドンがいけにえを捧げる祭壇を飾ってくれた。だから、おまえたちが生殖の聖域で女であるように、ぼくたちもそこでは確かに女なのだ。おまえたちの快楽でぼくたちに未知なものは一つもなく、ぼくたちが楽しめない快楽などひとつとしてない。しまお、それに加えてぼくたちにはぼくたちの快楽がある。二つを兼ね備えたすばらしいその造りこそぼくたちを、地上でだれより官能の快楽に敏感な、だれよりもその快感を感じるにふさわしい人間にしているのだ。」『ジュスティーヌまたは美徳の不幸』119-120.