資生堂は1893年にビタミン剤を売り出したか

山下麻衣「福原有信 1848-1924」宮本又郎編『日本をつくった企業家』(東京:新書館、2002)39-46.
「資生堂」の創業者の福原有信は、1848年に安房国松岡村(現千葉県館山市)で生まれた。生家は漢方医の家であるが、江戸に遊学した折に、西洋薬剤に触れて、これからは西洋薬剤の時代であるとして西洋薬学を学ぶ。1865年に幕府医学所に入学、69年には東京大病院の中司薬となる。1872年に、同じ海軍病院勤務の前田清則、矢野義徴とともに、西洋風の薬局を開業する。松本良順、佐藤尚中らの有力な医師の援助を得て、銀座に西洋風の薬局を開業し、『易経』の「万物資生」から取って「資生堂」と名付けた。経営危機を乗り切り、1888年に「福原衛生歯磨」を製造販売して成功した。高い価格(25銭)でも、品質がよく美しい容器に入っているという資生堂の企業精神がうかがえる製品であった。1897年には化粧品を売り出し、1900年にアメリカで知った「ソーダファウンテン」を開業して成功した。

1893年に、脚気特効薬として「脚気丸」を売り出した。これは、当時の海軍軍医総監であり、海軍船員の脚気の研究をしていた高木兼寛の考えに基づいたものであった。山下は、これを「日本初のビタミン剤と推定されている」と書いている。この表現は、難しいところである。ビタミンとその欠乏症の概念の根本ができていない時期に、経験的に治療と予防が発見されていたからである。江戸時代の医者は脚気に対して豆や麦を食べることを勧めている。これをビタミン療法と呼ぶことは難しい。高木の場合は、対照群を用いた洗練された経験であったから、「摂取される炭水化物と蛋白質の比率が悪いと脚気になる」という高木の理論が間違っていたとしても、資生堂社史室としては、自社の製品を「日本初のビタミン剤」と呼びたくなる気持ちは理解できる。でも、やはり、「のちのビタミン剤につながる製品であった」くらいがいいように思う。