斎藤光政『偽書<東日流外三郡誌>事件』(東京:新人物往来社、2009)
アマゾンで津波の歴史の本を買った時に、たまたま「おすすめ」で出会った本。こういう買い方をする本が成功することは珍しいが、この本は気楽に読めて抜群に面白かった。
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<東日流外三郡誌>という偽書が存在して、これは、和田喜八郎という炭焼きをしながら郷土史を愛好していたものが「発見した」ものである。内容は、古代から中世にかけての東北には独立した王朝が存在していたことを示すものであり、江戸時代に収集されて記録された伝承などを記した文書を、明治時代に筆写したと称するもので、実際は、和田が書いていたものであった。その文書はもちろん門外不出で、要求するとコピーが出てくるという仕組みになっていた。最初は村の村史の資料集として登場したが、学者たちはその荒唐無稽な内容や記述の乱れや文体・用語などから、すぐに偽書だとわかって相手にしなかった。村の郷土史家たちもおかしいと思ったけれども、村おこしにも役立つし、また、その村の村おこしに都合がいい文書を、和田が新たに現在進行形で偽造してくるという事情もあって、おかしいなと思いながら和田に従っていた。また、この話は、大和朝廷や源平の武士などの中央に敗れた地方という位置づけしか持たない東北が、独自の歴史と王朝を持つ国際的なプレーヤーだったという壮大な話だから、反体制の人々に支えられる素地を持っている。(実際、新左翼とオウム真理教の双方に支えられたらしい。)だから、この偽書の内容は、雑誌で取り上げられ、コミック化され、ある意味で、想像力と現実の境界付近に広がる自由な空間で繁殖することになった。
著者の斎藤が、他の研究者などと協力して、この書物が偽書であることを追求し、和田が次々と仕掛ける古文書と村おこしのセットの虚妄性を次々と暴いていった経緯は面白く書かれているし、学ぶことも多い。彼が言っている多くのことは正しいし、共感するし、学者として反省をかきたてられることをたくさん書いている。歴史学を学ぶ学者や学生は、この本を読むべきだと思う。
それらの全てを認めたうえで、必ずしもこの本では強調されていないことが、気になっている。斎藤を含めた「偽書派」が何をしたのかということである。これは、「東日流外三郡誌」の内容が正しいと思っている人々を啓蒙して、それが偽書であることを証明した事件を記した本ではない。蒙昧と真理の対立で動いた事件ではないのである。斎藤らが、これが偽書だと証明した時に、学者はそれをもともと知っていたし、人々はほとんど「やっぱり」と思っている。これは、人々がもともと「うそだろう」と思いながら、ある水準の空間を流通させていた言説が、「もともとは」嘘であることを暴いた書物である。斎藤の記述では、これが真書であることを主張していた少数派の学者である古田がよく登場するけれども、それは真―偽という、わかりやすい二項対立に従わせるための枠組みであるように思う。この、「真―偽」という区別とは違う空間で、だれもが偽書らしいと思っている文書が読まれている状況を「ポストモダン」と呼びたい誘惑にかられるけれども、たぶん、それも違うと思う。 たとえばダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』も『ペスト』も、ある意味で偽書である。そんなことを言ったら、18世紀の小説の大半は偽書であり、多くの読者は偽書だろうなと思っていた。