戦前・戦後の産婆(助産婦)

永沢寿美『産婆のおスミちゃん一代記』(東京:草思社、1995)
昭和戦前期から戦後期にかけて産婆・助産婦として活躍した女性の自伝である。著者の永沢は、1912年に、東京の北のはずれの六月(ろくがつ)で生まれた。実家は藍染工場であり、多くの従業員を使う裕福な家であり、父親は進取の気風に富んだ人物であって、寿美を職業婦人にするのに大いに力があった。寿美は、近くの寺の奥さんで産婆をしているものに弟子入りして修業をつみ、それと並行して東京助産女学校で産婆学をまなんで講習会などをうけ、産婆の資格をとる。それからすぐに、離婚をした産婆に乞われて、彼女の一人息子と結婚することになる。つまり、嫁と姑の双方が産婆をすることになったのである。近世以来の医者は、同じ土地で代々継承される職業というイメージがあるが、日本の近代産婆という職業もそのような性格をもちながら始まったのだろうか。ヨーロッパにおいては、都市に存在した高度に訓練された産婆は、そのように継承される性格をもっていたから、それほど不思議ではない。

戦前から戦後にかけての産婆の実態についての貴重な一人称の語りで、さまざまな情報がある。戦前の人口増加から戦後の人口抑制に、政策が180度転回されたときに、産婆という同じアクターが用いられたことがよく分かる。

染物工場の娘で、女学校卒の資格を得て産婆になった彼女から見た時に、昭和の農家の嫁の出産が、薄暗く不潔でみじめなものであることを嘆き、さらに農家に存続する「姑」の優位が、近代的な出産を妨げていることに怒った調子で書いている。それも重要な事実だが、どちらかというと、彼女が同時代の農村における出産の習慣と家庭の権力構造を知らなかったことのほうに私は驚いた。