脱ヨーロッパと世界史

講談社版『世界の歴史』
講談社『世界の歴史』の小さなお知らせが古書から出てきた。1976年か77年に配本を始めたシリーズで、全25巻で世界の歴史をカバーするシリーズである。「世界の歴史」という全体像を構成するときに、どの地域・どの時代に重点を置かれるのかということに興味があるから、25巻のタイトルを眺めた。

いくつかの特徴があって、その一つは、「脱ヨーロッパ」がかなりの程度達成されていることである。これは、私が学んだ東大駒場の地域文化大学院の構成と比べたときの話である。この大学院の下にある学科は、イギリス、フランス、ドイツという西欧の帝国主義三強国がそれぞれ学科をもち、それにくわえて、ネオ=ヨーロッパといえる地域であるアメリカ、ロシア(東欧)がそれぞれ学科をもっていた。あとはアジア全体で一学科、ラテンアメリカで一学科という構成を取っていた。全7科のうち、ヨーロッパの三強国で三つ、ネオ=ヨーロッパの強国で二つを占め、世界の残りを二つの学科で担当するという体制であった。19世紀の20世紀の政治体制が学科構成に結晶したと言っていい。アフリカを研究する学科はなく、きっと旧宗主国に応じて割り振られていたのだと思う。この圧倒的なヨーロッパへの偏りを批判することは簡単だし、もしかしたら批判されなければならないのかもしれないが、これは、大学の教養課程の外国語教師をベースにし、それを反映させて構成しなければならない学科であったことの特徴であるから、取り組まなければならない問題は巨大であることもわかっている。

話を講談社『世界の歴史』に戻すと、東大の教養学科のようなヨーロッパへの大きな偏りという現象はない。ヨーロッパそのものが扱われているのは合計して6巻くらいである。ネオ=ヨーロッパはアメリカに1巻、ロシア・ソ連・東欧に2巻くらいだろう。この9巻以外の16巻は、世界の他の地域に分配されている。「世界の歴史」の構成の仕方としては、これが正しいかどうかは分からないけれども、少なくとも、東大の教養学科の構成よりはずっと正しい。

この企画が1976年という年代を見て、私としてはなんとなく意外というか、正直言って、面白くなかった。私の頭の中では、1970年代・80年代はまだヨーロッパ・米ソ中心主義だったけれども、それから離脱してきたという流れを、全体的な知的潮流として捉えていたが、これは、そういうことではなく、私自身が時代遅れな環境から抜け出したということだろうか。つまり、私が学生時代を過ごした東大駒場という環境が、時代遅れにヨーロッパ中心主義的な構成を取っており、そこから抜け出したから、他の大学などでは当たり前のことになっていた脱ヨーロッパ的な世界史観に触れたということだろうか。東大駒場は、本郷への強烈な対抗意識を持つキャンパスで、自身を先進的・リベラルであると位置づけていたから、そのレトリックに洗脳されて、駒場が時代遅れな体制を取っているということは、ちょっと考えにくかったのかもしれない。自分は、水準は高いかもしれないが、時代遅れな体制で教育されたのかという可能性があるのだろうか。もしそうだとしたら、本気で知的反省をしなければならない。

さらに厄介なことは、医学史という学問との関係である。この「脱ヨーロッパ」は、私の専門の医学史や科学史といった学問、つまり、極端なヨーロッパ中心主義を取って現在の研究が行われている学問を学んでいる学者が、注意深く考え直さなければならない主題であると思う。あるいは思想史にもそういう事情があると思う。今のゲームの中で水準が高い研究をすることは、それほど難しくない。そのゲームの規則の欠点に気がついて、新しい規則で高い水準のゲームをすることが、本当に難しい。