In Time (2011) 映画

ガタカ』(1997)という、アンドリュー・ニコル監督の傑作がある。近未来SF映画で、遺伝子を操作する生殖医療が広まって、遺伝性の疾患を予防することができるようになった社会において、普通のセックスをして生まれたために「疾患」や「障害」を持つ人間の生き方を描いた作品である。生命倫理の教室ではもちろん、医療人類学や医学史の教室でも必ず勧められる映画で、道徳の教材の性格を帯びているといってもいい。

このアンドリュー・ニコル監督の新しい作品である、In Time (2011)を飛行機の中で上映していたので、喜んでみた。同じような発想の近未来SFである。映画としての出来が優れているかどうかは別にして、発想としては『ガタカ』よりもはるかに面白く深い。『ガタカ』が遺伝子操作を問題にしているとしたら、In Time は、寿命(余命)と貨幣を問題にしている、広がりをもつ話題だからである。

話の仕掛けが重要である。未来の社会では人間は誰でも25歳までは必ず生きて、その時に自分の「余命」をもらい、それがデジタル表示で腕に浮き上がる。これは、何年から月、日、時間、分、秒単位まで、合計13ケタで表示される。この余命が、貧困層と富裕層では大きく異なる。貧困層は一年しかもらわないが、富裕層は何百年・何千年という余命を貰う。この余命がゼロ秒になると同時に死が訪れる。この腕の表示に長い時間があり、何千年という寿命を持っていることが、富のシンボルである。

富の「シンボル」という言い方は正しくない。富「そのもの」というべきだろう。この社会では、余命はまさに貨幣そのものであるからである。貧困な労働者は、日雇いで仕事をして日給で時間をもらい、その時間が、余命が何日伸びるということになる。賃金のかわりに「余命」を貰うことになる。同じように、アパートの家賃を払ったりバスに乗ったりすると、自分の余命から一定の時間を差し引くことが支払いになる。物価が上がると、貧困層にとって、それはまさしく余命を文字通り直撃するダメージとなる。賃金として払われる。大金持ちは、高級ホテルに泊まって数か月分の余命で払ったり、あるいは余命をポーカーで賭けたりしている。この状況で、スラム街出身の主人公が、大富豪から長大な余命を贈与されることで、映画の話が始まるが、その内容には触れない。

皆さまがすでにご承知のように、このストーリーの仕掛けの重要なポイントは、社会格差と健康格差の問題である。実際の社会において、上位所得者と下位所得者を較べると、もちろん寿命が違う。この健康格差については、原因が探られ、それを減らすべく努力がされなければならない。ポイントは、この健康格差の存在をどのように評価するかということである。現在の社会においては、所得の上位層の下位層の健康格差は、比較的小さいと言える。これは国別の話だけれども、日本の平均寿命が83歳で世界一位。それから10年低い73歳という平均寿命は、モーリシャス、モロッコ、ルーマニアといった国がならぶ70位くらいの国。63歳は、ラオスやパキスタンなどの142位近辺の国である。この数字の差は、国民所得などの差に較べて、実は小さい。国民一人あたりGDPが首位のルクセンブルクから70位くらいにさがったら、数値はマイナス10歳などというものではなく、 十分の一くらいに下がっているし、140位にまでいくと百分の一くらいになる。平均寿命における格差はおどろくほど小さいのである。つまり、いま現在は、貧困国だろうが富裕国だろうが、生物として生命の長さについての平等が比較的実現されている。「死の前に平等」という構図は、いまだ大きく崩壊はしていない。しかし、「生物性」が克服されるとともに、貧困者の余命は1年で富裕者は1000年というような不平等が現れる方向に向かうだろうという考えは、私には説得力がある。