男性ヒステリー

Micale, Mark, Hysterical Men: the Hidden History of Male Nervous Illness (Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 2008).
マーク・ミケーリの男性ヒステリー論をチェックする。

19世紀の後半は、ヨーロッパの産業が急速に発達すると同時に、その植民地支配が広まった時期であった。ヨーロッパの理念は、世界の各国で模倣された。ヨーロッパに黄金時代があったとしたら、それはこの時期をおいてほかにはなかった。しかし、その黄金時代と並行して、近代社会の問題が可視的になり、自らの時代が深い混乱と転換を迎えていることも意識され、議論され、激しい対立を呼んでいた。激しい議論の対象となったもののひとつが、女性の地位であり、男性のありかたであった。女性の参政権がひろまり、男性の同性愛が明確に懲罰の対象になると同時にその是非を議論する知識人や芸術家もいた。「その名前を言わぬ愛」(ワイルド)は、実はそこら中で語られていた主題であった。

この中で、1880年代から、パリのシャルコーらは、「男性のヒステリー」の疾病が存在するといい、それを研究し始めた。それは労働者にも農民にも発見され、それまでヒステリーに罹患する男性などほとんどいないと思われていたが、実は女性と同じくらいいることがわかった。ヒステリーの前に男女が平等になったのである。しかし、この診断は、シャルコーの仲間たちには認められたものの、なかなか広まらなかった。そのひとつの理由は、新しい病気の発見がもたらす、「これは、診断が正確になったのか、それとも、この病気が新たに現れたのか」という問いである。診断が正確になったのなら、これは医学の進歩を意味するから、何の問題もないし、シャルコーたちはもちろんそのつもりであった。しかし、「男性ヒステリー」という病気が、この時代に、新しく現れたとすると、そのことは、19世紀の世紀末は、男性がそのヴァイタリティを失い、まるで女性のようになっている時代であるということを意味するのではないだろうか。折悪しく、フランスを1870年の戦争で完膚なきまでに打ちのめしたドイツの医者たちからは、「それはフランスでだけ見つかる病気ではないのか」という声が上がっていた。戦争に敗れたフランスの医者にとっては、傷口に塩をすりこまれるような意味をもった「科学的な」指摘であった。ドイツの医者がドイツにも男性ヒステリー患者を診たという論文を書いたときに、フランスの医者たちは大喜びした。

いっぽうで、フランスの医者たちは、ヨーロッパ以外の地域では、男性ヒステリーが多いということを指摘していた。インドシナ、中国、アラブ、アフリカ、ところかまわず、男性が女性のように理性を失い感情的になって正常を失う病気であるヒステリーにかかるとされた。アルジェリアでは食べ物がスパイシーだから男性はヒステリーになり、グリーンランドでは人口の十分の七がヒステリーにかかっているとされた。

男性ヒステリーは、精神医学が古典古代以来の診断のくびきから自由になり、正しい診断ができるようになったことだけではなかった。近代化する世界において、どの国家に男性の危機が濃厚になり、その命運が危機に瀕しているのかという問題をめぐる不安が交錯する問題であった。