Rheinberger, Hans-Joerg, “Beyond Nature and Culture: A Note on Medicine in the Age of Molecular Biology”, Science in Context, 8(1995), 249-263.
必要があって、ラインベルガーの有名な論文をもう一度読む。「自然」と「文化」の存在論的な違いと、両者の対立という図式とは異なった図式が、現代の遺伝子工学のリサーチにおいて機能しているという明快な議論は分かるのだけれども、それを展開して、現代の文明についての大きな議論に行く部分がよく分からなかったので、もう一度読んだ。
必要があって、ラインベルガーの有名な論文をもう一度読む。「自然」と「文化」の存在論的な違いと、両者の対立という図式とは異なった図式が、現代の遺伝子工学のリサーチにおいて機能しているという明快な議論は分かるのだけれども、それを展開して、現代の文明についての大きな議論に行く部分がよく分からなかったので、もう一度読んだ。
基本的な議論をもう一度復讐すると、1970年代に分子生物学という営みの基本的な枠組みが変化した。かつては、細胞内で起きていることを細胞外で表現する技術を作り出すことが分子生物学の目標であった。これは生命を理解することであった。しかし、DNA組み換えによって、新しい技術が現れ、この技術によって、かつてとは違うモデルで研究が営まれることとなった。それは、細胞の外のプロジェクトを、細胞内で表現すること、即ち「生命を書き換えること」を目標にするようになった。この部分はOKである。
問題はここから。これによって、「自然」と「社会・文化」(この論者は両者を等価に使っている)が存在論的に異なっているという図式が崩れた。遺伝子工学は、細胞の内部にある遺伝子という自然を用いて、そこに介入することを行うのだから。このことは、「歴史」というか「時間の経過」のスケールも変えた。かつては、進化という長い自然の時間にだけ許された行為であった、人間の存在(遺伝子)を書き、書き換え、変更するという営みに、科学技術がアクセスすることが許されたのである。このあたりはついていける。