アウグスティヌスの結婚と性の思想

Peter Brown, The Body and Society のアウグスティヌスの部分を読み直す。アウグスティヌスは、ブラウンが言うところの「砂漠の思想」に向き合って、結婚を正当化する一方で、性の快感に心理的な深い不安を与えた。即ち、初期キリスト教が持っていた、人間社会の根本にある結婚とセックスへの疑問に答えて、アダムとイヴの性交を肯定して、結婚を正当な人間社会の中に位置付けたと同時に、セックスの快感を、人間がそれとともに生きねばならない原罪の徴であると考えた。

a)彼以前の禁欲派とは違って、アダムとイヴは楽園追放以前に性交を行う可能性があったか?という問題にイエスと答える。このことは、結婚の中での性交という重要な社会制度を正当化する役割を果たす。
b)楽園追放以前にアダムとイヴがもし性交したとしたら、彼らの意思に従って愛情に満ちたものであり、そして子供を作ることができるセックスである。我々が感じているような情欲や快楽の奔流に我々の意思が流されるセックスではない。このように、アウグスティヌスは、結婚―性交―生殖という行いを、キリスト教の人間の本質に近い部分においた。
c)一方で、この快楽は神が人間に与えたものであり自由意思によってコントロールできるというオプティミスティックな態度をとった他の著作家とは異なり、アウグスティヌスはアダムの原罪の結果、我々人間は全て、性の快楽と自由意思の深い裂け目とともに生きなければならない、と主張した。
d)即ち、我々の理性と自由意思に反して我々の身体が振舞う性の快楽の頂点こそが、我々にはどうにも乗り越えられない深い原罪の結果を我々に強烈に思い出させる特権的な事例である。

アウグスティヌス、および彼の影響を受けた後のキリスト教会においては、結婚内における性交は、重要なものとして認められ祝福され、社会の中で安定した役割を与えられる。しかしその一方で、結婚の中でさえも、a) 性は他の身体過程とは異なった特別な原罪のしるしが現れる場であり、b) 性交の快楽の罪深さは乗り越えること、消し去ることができないものであり、我々はそれとともに生きていかなければならない、という緊張した心理的な過程が性をめぐって想定されたことになる。