昆虫の性の魅惑

北野博美「性欲衝動の精神生活に及ぼす影響」『変態心理』2巻8号(1918), 522-531.
下等生物における心理や運動は、20世紀の前半には精神病を理解する重要な鍵となった。この論文は、昆虫や魚類や鳥類、そして「野蛮人」から話を始めて、その性が精神にどのような影響を与えるかを論じている。ファーブルなどから引いた蝶についての記述が、あまりにも美しく説得力があるので、メモする。

昆虫にとって、生存上唯一の、しかも最高の目的としているものは「恋する」ことである。そして、彼らにとって多くの場合、恋をすることと死ぬこととは殆ど同意義なのである。ポンビシット種のナハト・バウエンアウゲン(孔雀蝶の類)の体内には、ただ巻縮した腸管の痕跡があるばかりで、蝶となって後の生活中には、ただ一度の食事を摂ることさえ不必要で、その生涯の全部を恋に費やしていい。それを構成する身体の各部位は、すべて恋の道具となっているのは極めて当然のことである。オスが持っている多毛の触角はメスを嗅ぎ知るための羅針盤であり、美麗な羽根はメスを追うための道具であると同時に、誘惑すべき装飾でもある。羽根をかざる鱗粉は一種の香気を発してメスの心を刺激するようになっている。かくてオスはメスをたずねて森を超え、野を飛び、ついにメスに達すると数時間の恋の享楽が続いて、オスまず疲弊して斃れ、メスも卵を産んでその生涯を終える。

多くの高等動物および人類にあっても、性の衝動のために全感覚や全精神の刹那的魔酔に陥る。しかし、この魔酔に陥ってしまうことも人類にはできないので、複雑な心的現象が現れる。

「身体の各部位がすべて恋の道具になっている」という表現は、「虫の詩人」と呼ばれたファーブルの影響なのだろうか。どうであるにせよ、この蝶の記述は、エロティックな文章として磨き抜かれた感性を持っていないだろうか。昆虫学というのは、全身が恋の道具である昆虫に魅惑されて、官能的な視線を持っているのだろうか。何が言いたいかというと(笑)、『キンゼイ・レポート』でアメリカ人の性の規範をくつがえしたと言われるアルフレッド・キンゼイについて、学生を驚かせようとして、<実は>昆虫学者であるという説明をしてきたけれども、昆虫学者だからこそ、人間の性の多様性に魅惑されたのだろうか、という思いが頭をよぎった。たしか、数年前に書評だけ読んだ伝記でも、そのようなことが書いてあったのかもしれない。