江戸時代におけるコレラ予防の地形的な知恵

コレラを避けて旅行する―河井継之助「塵壺」より
一仕事片付けた夕方に、『日本庶民生活資料集成』を眺めていたら、面白い記述に出会ったのでメモする。越後長岡藩の河井継之助が安政6年(1859)の7月に江戸を発って備中松山藩に遊学したときの物語である。1859年というのは、前年のコレラの大流行がまだ各地にくすぶって再発していた頃であり、河井はこのコレラ流行を避けながら旅行することになる。河井は、大阪から備中に行くときに、姫路、岡山とすすむが、その途中で、コレラの流行に出会う。道端には六部が斃れて死んでおり、死んだ女が籠に乗せられて顔を手ぬぐいで覆って生きているかのようにして運ばれていた。各地で疫病神送りも行われており、河井はこれを「馬鹿らしいこと」と記している。このようなコレラが流行している道をわざわざ進むのは愚かであるから、河井は本道を避けて、妹尾という土地に出て、下津井に行き、そこから讃岐に渡ろうとする。金毘羅でも見ながら流行が過ぎるのを待とうとしたのだろうか。

しかし、その朝に大雨が降った。これによって「悪気が一洗された」ように河井は思う。特に、備中松山は、現在の高梁市にある山がちな地形であるから、かえってこの機会を捉えて行ったほうがいいであろうと判断する。讃岐は帰りに寄ることにして、板倉から松山道に入って、松山に向かった。そこでは、流行病が全くなかったという。

ここには、地形と気候から疫病の流行を読む技術を河井が持っており、それに従って旅程を計画したことが記されている。大きな街道を進むとコレラに罹りやすいこと、雨が降って大気が洗われると毒気がなくなること、山地はコレラの流行が及びにくいこと、などがその知識である。