高野六郎「精神衛生国策」

高野六郎「精神衛生国策」『精神衛生』10(1936), 1-9;「優生断種に対する賛否論批判」『精神衛生』10(1936), 23-26.
この時期の高野六郎は、衛生局の予防課の官僚であるが闊達な文章をあちこちに書いていて、官僚として言うべきではないような本音を無防備に書いているような印象を持っている。その高野が優生断種について積極的な意見を展開している講演である。高野がいうには、日本の衛生行政は、お得意の急性感染症の予防についてはだいぶ進んだが、精神病の予防については、「甚だ遺憾でありますが、実はさっぱり何もまだいたしておりません」とのことである。「しかるにここに精神衛生国策などと大きな演題を出しておりますと、どうもしゃべる人が頭が変なのじゃないかとお考えになるかたもあるかもしれません」「ことに精神病ご専門の先生などは、ずいぶんいわゆる変わり者の方、すなわち精神にどこか異常があるのじゃないかと思われる人が先生の中にすら多いという話をよく伺うのであります。精神病の先生すらそんな風とすると、世の中には精神異常とか低能者とか云う者が案外に多いと思われます」・・・とまあ、こんな感じである。

強制断種か任意断種かの問題では、高野は強制断種を以下のように合理化する。自分が悪質な遺伝があるからといって断種する人は、もともと利口な人である。高野の言葉を使うと「フワーストクラス」の人である。問題になるのは、悪質遺伝があるために結婚できずに「売れ残った」雑輩が、選択に漏れたからといって国家のために断種の手術をするのではなく、むしろ「破れ鍋に綴蓋」式に、同病相哀れんで遠慮なくどんどん結婚し、遠慮なく子を産む。むしろこうなるとたちの悪いものが世の中にはびこるかもしれない。

高野はしかし、すぐに強制の優生断種には飛びつかない。これが国民の世論になってきたならば法律を作るという。たとえば禁酒や売春禁止を国民がやろうということになったら、衛生局としてはこれを行う。(インプリケーションとしては、衛生局としてこれを強くプッシュはしないということだろうか。)むしろ、高野自身が訴えたいのは、「皆さま各自が各家庭を守る工夫をしていただきたい」ということである。破れ鍋に綴蓋ばかりになる前、つまり「世の中に健康な人たち健康の家庭の多い間に早く考えていただきたい」ということである。

高野のスタンスについてもいろいろ面白くて分析するべきである。けれども、一歩引いて、高野自身が、日本には健康な人が多いと無邪気に信じていたことは、説明を要する問題だと思う。