イムは和人との接触が作った?

高畑直彦・七田博文『いむ―アイヌの一精神現象』(札幌:n.p., 1988)
アイヌのイムについて書かれた比較的新しい書物を読む。イムについての文献の主たるものを列挙するだけでなく、それらから重要な部分を抜粋しており、非常に有益な書物である。

著者は札幌医科大学の精神科の教授であり、アイヌについても深い研究を行っており、イムについても調査を行っている。内村のイムについての研究が、いわゆる文化精神医学の視点をあまり用いていない点を踏まえて、「カーゴ・カルト」の概念を用いて内村とは大きく違った解釈をしている。

内村のイム論のコアは、それが蛇の概念によって引き起こされることから、蛇をトーテムやタブーとするアイヌ固有の文化との関係を確認したうえで、アイヌ民族が未開民族として持つ被暗示性・推感性がイム形成の中心であるとする考え方であった。イムはアイヌ民族が未開であり独自の文化を持つことによって生まれた心的反応であり、アイヌが和人と接触することにより、イムは消滅していくものであると捉えられていた。1930年代に内村が発見したイムの分布はこの図式にあてはまるものであり、アイヌ文化が濃厚に残っている地域で多くのイムが発見されていた。

高畑・七田は、これと大きく異なった考え方をして、イムは、アイヌが和人と出会ったことにより形成されたと解釈する。重要なポイントは、「刺激者」をイムの発作で重要な役割をはたすものとしてモデルを組んだことである。イムの発作を起こす「蛇」は、アイヌにとって恐怖の対象というよりむしろ本来の自分、昔の平和なアイヌ、良いカムイの象徴である。一方、「蛇」を見せたりその言葉(「トッコニ」)を掛けたりする刺激者が加害者・侵入者であり、平和を乱すものであり、悪いカムイである。躁暴行為は、加害者への抵抗であり、刺激者の行為や命令と反対のことをしたり言ったりする「反対動作」はこの延長上にあるより戯画化された抵抗である。刺激者と同じことをする反響行為は、馬鹿馬鹿しいほど忠実に真似をした、逆説的な抵抗演技である。

これは、カーゴ・カルトの例において、白人の侵入者との接触によって既存の神話・象徴が組み替えられて集団ヒステリーが起きたのと同じメカニズムで捉えることができる。イムは、アイヌが和人と出会って搾取され支配されたことに対する反応であり、言葉を換えれば、アイヌと和人の出会い以降に形成されたものなのである。

私には是非を論じる資格はないが、面白い点は、刺激者をイム形成の機制の中にいれたこと、実はこの刺激者の中にフィールドワークを行った精神科医や人類学者・民俗学者も含まれることであろう。違和感がある点は、やはり歴史の問題である。和人と接触する前のアイヌにはイムがなかったこと、あるいは和人との接触によってこのような形のイムが発生したということがこの議論の要石になるが、それをどうやって説明するつもりなんだろうか。