八丈島と三宅島

山田平右ェ門『八丈島の戦史』改訂版(東京:郁朋社、2012)
宮本常一『辺境を歩いた人々』(東京:河出書房新社、2005)
小石房子『江戸の流刑』(東京:平凡社、2005)
樋口秀司編『伊豆諸島を知る辞典』(東京:東京堂出版、2010)
池田信道『三宅島の歴史と民俗』(東京:伝統と現代社、1983)

三宅島と八丈島についての背景的な知識を得るために雑多な本を借りて目を通す。どれもとてもためになった。

宮本 11-57に、18世紀末から幕府の命で蝦夷地を探検した武士の近藤重蔵と、その息子の富蔵についての記述があった。富蔵は、父親に反発した青年時代を過ごし、のちに町人を斬って八丈島に流され、当地についての最も詳しい記述である『八丈実記』を記した人物である。
八丈島の三根(みつね)、大賀郷(おおかごう)、樫立(かしたて)、中之郷(なかのごう)、末吉(すえよし)の村、小学校と青年学校、青年団、女子青年団、婦人会、在郷軍人などの組織があり、昭和16年には、大政翼賛会、産業報国連合会などの支部が作られる。
幕府は重い刑罰の一つとして流罪をさだめ、江戸の流罪人は伊豆諸島に、京、大阪、西国、中国の流罪人は、薩摩、五島列島隠岐、天草に流すこととしていた。伊豆諸島においては、とりわけ、新島、三宅島、八丈島の3島は、主要な流罪地として機能した。17世紀から幕末までの期間に記録に残っている流罪人の数を合計すると、新島、三宅島、八丈島の3島は、それぞれ1333人、1329人、1865人の罪人が流されている。島の人口の1割から2割程度が、流人から構成されていたことになる。この流人の中には多くの著名人もおり、歌舞伎の題材にも取り上げられた。それぞれの島は火山島で農耕に適さず、飢饉と災害が頻発した。また、流罪人による脱出の試みも数多く、三宅島では明和2年から文久3年までに35件、八丈島では享保7年から万延元年までに25件の脱出の試みが記録されている。このうち成功したものはごくわずかであり、ほとんどの試みは失敗し、捉えられた流人たちは見せしめのために凄惨な刑に処せられた。