ヘルマン・オッペンハイム

Oppenheim, H., Lehrbuch der Nervenkrankheien fuer Aerte und Studierende, 2 vols., 4th ed., (Berlin: Verlag von S. Karger, 1905), 2: 1275; Oppenheim, H., Lehrbuch der Nervenkrankheien fuer Aerte und Studierende, 2 vols., 5th ed., (Berlin: Verlag von S. Karger, 1908), 2: 1452.
ヘルマン・オッペンハイムのLehrbuch は1894年から1914年にかけて7版を重ね、当時は「神経学のバイブル」と言われた神経学の教科書である。この教科書の第4版、第5版を借りて、榊が書いたアイヌのイムの記事が含まれているかどうか確かめた。たしかに、どちらの版においても、Imbacco として記載され、出典としては榊の論文が参照されている。内容においては、アメリカ原住民のジャンピングや、ジャワの「ラター」、シベリアのミリアヒット (Myriachit) などとともに扱われている。
オッペンハイムという医者は、1858に生まれ1919年に没している。ヴェストファールにベルリン大学で教えられ、脳を観察・分析する手法をマスターしたのちに、心理学的な方向に進むという、この時期の精神科医の多くが進んだ道をたどった。ユダヤ人であったため、ウェストファールの推薦などがあったにもかかわらず、ベルリン大学の教授職を得ることができず、ベルリンで私立のクリニックの院長となった。ベルリンには60ほどの私立病院があり、この多くはユダヤ人の医師が経営していた。これはウィーンだが、フロイトもユダヤ人ということもあって大学での上昇の道を断たれ、私的開業を行っていた。

19世紀後半の医学・精神医学の職業の世界は、かつて急速に拡大していた時期の自由を失い、大学教授を頂点とする階層的な秩序を重んじた、軍隊的な上下関係と規律のエトスが激しい世界であった。おそらく日本のかつての医学界における官尊民卑の念と、民の中においてかえって露骨な序列意識は、この時期のドイツから学んだのだろうか。きっと、ドイツも今では変わっていると思うけれども、日本では残っているのかな。