戦前大阪のモルヒネ中毒と朝鮮人労働者

小関光尚・森本誉愛「最近大阪府立中宮病院に於て治療したる慢性モルヒネ中毒患者百例に就て」『民族衛生』6(1934), 19-30.
小関光尚は、ネット上で調べた情報では、ウィーンに留学し、優生学、社会事業、遺伝学、性格学などについての著作活動がある。日本精神衛生協会の大阪支部で行った「遺伝の話」という講演があり、これは、岡田先生の集成の第5巻に収録されている。1932年の段階では中宮病院の院長であった。
森本は、詳細は不明だが、ウェブで検索したら大阪医学会会誌に論文を載せており、後には堺のライオンズクラブの会長をしている。
この論文は、大阪市の朝鮮人のモルヒネ中毒者を中宮病院に収容して治療するプログラムを報告したものである。昭和期の社会事業と麻薬中毒と精神医学のかかわりについての貴重な資料だと思う。

大阪市には朝鮮人が10万人ほどいるが、そのうち800-1200人はモルヒネ・コカイン・ヘロインの中毒者である。この中毒により道徳観念が衰退し、薬物を得るためなら何でも行うから、窃盗、かっぱらい、空き巣狙いなどの犯罪の原因にもなっている。特に、大阪では、電線を切るなど、金属を持ち去る犯罪が多発している。彼らは、常に蓬髪垢面、身にはぼろをまとい、白昼臆面もなく街路をさまよって屑箱をあさる「ヒロイヤ」となってわずかの価値があるものなら何でも集め、その挙句には前記のように犯罪を行う。彼らに治療を加えることは、「都市浄化」のために極めて必要である。しかし、単に治療をしてそのまま社会に戻したのでは、日ならずして旧情に復帰するだけである。であるから、より強力な方法を取った。それは、
1) 特に不良行為の著しいものを刑事課の手を経て入院せしめる
2) 同時に警官によって麻薬密売業者を検挙する
3) 強力な治療法を実施する
4) 治療後は、特別高等課(いわゆる「特高」のことだろうか?)、社会課、および内鮮融和会の協力により、適切な保護を加え、中毒に再び陥るのを防ぐ

合計100名の患者(男96、女4)を集める。年齢層は、21-40歳が中心である。このものたちは、すべて朝鮮出身であり、確たる見込みもないまま内地に移住して大都市に居住しているもので、みな身体だけを資本とする傭人である。南大阪の広場(ヒロッパ)に居住し、小屋や安宿などに泊まる。このヒロッパには数多くの薬の密売人がおり、ヒロイヤが何か金目のものを拾うと、それを直接薬包と交換するか、あるいはすぐ金に換えてそれで薬包を買うことができる。薬包の値段は10銭であり、10グラムのモルヒネ系の物質を12-13円で買い、これから220個ほどの薬包が取られる。この薬包を注射器で皮下注射、静脈注射などをする。

治療は三つに分かれ、徐々に治療の枠組みに患者の精神を入れ込んで鋳造していく過程になっている。第一期は「観察期」とされるが、ここでは患者はいまだに自己の中毒症状を治療しようとは思っておらず、不安と危惧を持ち、隙あれば逃亡しようとし、自己の症状を誇大に訴え、共謀して威嚇し、強迫して注射薬や注射用具、酒、たばこなどを強奪しようとする。とりわけ、過去において警察に抑留された経験、精神病院に入院した経験を持つものたちは、計画的にこれらの暴挙をなそうとする。そのため、小関は、これと徹底的に戦う覚悟を決める。すなわち、厳密な身体検査を行い、日本語以外の言語の使用を禁じ、日本語を解さないものは通訳を通じてのみ発言させる。そして、不快な禁断症状が出るたびに適量の注射を行って中毒量を知る。このうち、患者は入院生活になれ、生活は規則的となり、服薬を好むにいたり、中毒は治療できると思うようになる。これに引き続いて、第二期は禁断期であり、注射を減量していく。禁断は「代償禁断法」を用い、66例はズルフォナールによる持続睡眠において禁断し、他はバルビタール、ルミナールを利用した。第三期は後治療であり、院内で運動・作業を行わせた。これらは精神療法であると同時に、禁断後かなりの時を経て突発する禁断症状様現象を観察するに必要である。この段階になると、患者は病院に感謝し、前途に対する希望が生じ、自己の能力を持って社会に活動しうる信念を持つ個人となる。すなわち、入院前とは別人のようになっている。
 気を付けなければならないことがたくさんある。まず第一は、そのきっかけの問題である。彼らがモルヒネを打ち始めた原因は圧倒的に病気や疲労感や痛みなどの治療である。「胸痛」が53人と半数以上であり、それに「花柳病」の10人、「疲労」の6人と続く。彼らは軽い痛み止めや売薬と同じものとして入っている。
第二に、小関は、彼らがモルヒネ中毒になったこと自体が、純粋に薬物の力ではなく、意志薄弱な性格に基づくものであり、彼らは変質者であると言っている。もともと知能が低く、道義心がなく、作業に従事しようとする意志が欠乏し、忍耐心が少なく、すぐ興奮するようである。これは、小関が酒精中毒について、「そもそもアル中になるような、意志が弱い精神病質的な性格の人間」という理解をしていたことと共通する。この変質者を改変するプログラムを小関が行っていることは、これは優生学なのだろうか。
第三に、言語の問題と帝国主義の問題である。小関を苛立たせたのは、彼らが日本語をあまり解さず、またこれを逆用して日本語を全く解しない風を装い、最初の談話は虚言ばかりであり、これは「甚だ不愉快」な思いにさせる。言語は抵抗の手段であった。(王子脳病院の史料でも、治療に非協力的になるにつれて、朝鮮語でしか話さなくなる患者がいた)一方で、治療が始まるときには、小関は朝鮮語の使用を禁止し、日本語と通訳のみの空間においた。言語は支配の道具でもあった。