デューラー『梅毒の男』



Eisler, Colin, “Who Is Duerer’s Syphilitic Man?”, Perspectives in Biology and Medicine, 52(2009), 48-60.
必要があって、デューラーの「梅毒の男」という木版画についての論文を読む。重要な発見をシンプルに語った、古典端正な論文である。

「梅毒にかかった男」は、現在ではデューラーが1496年に製作した木版画であると認められているが、デューラーの初期の作品であり、他の著名な版画の作品と比べて版画の技法が稚拙であることから、デューラーの作品と認められたのは20世紀のことであった。優れた医学史家で梅毒の歴史を研究したカール・ズードホフや、優れた美術史家のアビ・ワールブルクなどによって、デューラーのものと推定され、のちにデューラーの作品として認められた。

この作品は、「流行病報」(Pestblatt )と呼ばれているジャンルの作品で、当時流行していた疫病の画像をつけ、原因や治療法や道徳的教訓などを添えた印刷物である。(ロンドンでもペスト流行の際に作られていたし、日本においても安政のコレラなどで作られた。19世紀に現れた「麻疹絵」などの錦絵もこれにあたる)

ここに描かれている人物は、一見するとエレガントな衣装に見えるため、サンダー・ギルマンはこの絵を解釈して当時の上流階級の男性だと誤解したが、実は、Landesknechte と呼ばれた、ドイツやスイスの貧しい地方の出身の傭兵であった。この傭兵は、ゆったりとした上衣をきて、脚を露出させ、伊達な毛皮の帽子に羽飾りをつけており、デューラー自身も1495年の作品でこの傭兵を描いている。梅毒の主題に傭兵が描かれた理由は、まさしく彼らが梅毒の伝搬の主役であったからにほかならない。ヨーロッパでの最初の大きな梅毒の流行は、1495年のフランス王シャルル8世によるナポリの攻囲戦であり、この戦いや、同時期の他の戦争において用いられた傭兵たちがヨーロッパ全体に梅毒を広めた主人公であった。この「流行病報」でデューラーが描いたのは、まさしく、傭兵たちが梅毒を広めているありさまであった。

この論文は、梅毒が多様な姿を取るという点を利用して、デューラー自身が梅毒であったという議論と、デューラーが描いた苦悩の表情が梅毒の苦しみを表現したものであるという議論もしているが、この部分はなくてもいいし、仮に正しいとしてもそんなに面白くなかった。

画像はデューラー「梅毒の男」と「傭兵」