『ダランベールの夢』

ディドロ『ダランベールの夢―他四篇』新村猛訳(東京:岩波書店、1958)
学部1・2年生向けの歴史学の授業「身体の歴史―近代編」が始まった。「身体の歴史」という構想は2年目で、去年の秋学期はメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』で始めたけれども、あまりうまく行かなかった。たぶん、『フランケンシュタイン』のストーリーの中で、私が話そうとしている身体の歴史に関係するのが怪物誕生の部分だけだからだと思う。今年は『ダランベールの夢』の「対談の続き」の部分を配って学生に読ませながら解説するという授業にしてみた。自慰と同性愛、そして異種の動物の交配が論じられる部分である。『ダランベールの夢』は、もともときわどい部分が多い話だが、その中でも最も露骨な議論が続く箇所である。

主題は「種の交配」についてであり、それが生殖に至らない自慰と同性愛、そして異種生物との交配の二つのトピックについて語られる。キリスト教の理論では生殖に至らない性行為はすべて価値がなく罪深いことになっているが、それを批判することから議論が始まる。ボルドゥーの口を借りて、ディドロは功利主義とヘドニズムの立場から自慰と同性愛を正当化する。「有益と快楽の組み合わせが美徳であるとしたら、有益だけ、快楽だけでも美徳ではないか。自慰は、快楽を与えるだけでなく、人妻を誘惑したり娼婦を買って病気になるよりいいではないか、同性愛も同じことではないのか。血液が多すぎると多血質の病気になるから瀉血するように、精液が多すぎると病気になるから自慰で排泄することが健康で医学的なのだ」という議論を展開する。一方、異種交配については、山羊と人間を交配させて、過酷な労働でも行うことができるような「山羊人間」を作り出すと、植民地などで過酷に使われている人間のかわりに山羊人間を使えばいいという議論をする。

啓蒙主義が、社会を改善し、その過程でキリスト教の道徳を批判しようとしたときに、生と生殖を取り上げたことの歴史的な意味は大きい。それは、性と生殖についての議論を、個人と社会をつなぐ問題として設定した。その議論の構図を鮮明な形に仕上げたことをうまく説明できるといいんだけれども。