対馬のコレラと明治日本のウォーターフロント

久しぶりに感染症の記事を書く。『日本残酷物語』の第2巻「忘れられた土地」には対馬を扱った章があり、その中で、ある老人が明治40年におけるコレラの流行を語る部分がある。しばらく前にはコレラの流行のことをよく調べていたので、懐かしく読んだ。

ポイントは、日本におけるコレラの流行の変化である。おおざっぱにいって、明治以降のコレラは二層の類型で考えることができる。明治1877年の大きな流行以降は、日本においては漁業や水上交通などのウォーターフロントにおいて、コレラは常在から半常在の状態にあり、それが数年おきに大都市圏の人口集積地で大流行を起こすという状態が明治20年代末まで続いたこと。しかし、1897年の流行病予防法が定められると、それ以降は、人口がある程度集積している地域での流行を食い止めることができるようになったが、ウォーターフロントにおける半常在状態と散発的流行は大正期まで続いたこと。こう考えると、ウォーターフロントにおいてコレラが常在的な位置を占めたのはなぜだろうということになり、漁民の生活だとか漁村の地形だとか、色々調べた記憶がある。結局、この仕事は今までのところまとまった論文にすることができていないが、でも、きっといい議論ができそうな予感はある。

ここで触れられているのは、対馬のイカ釣りの船と漁村で明治40年にコレラが流行した時の様子である。当時は対馬のあたりでイカが獲れ、各地から漁船が集まってはイカを獲り、それを海上で開いて洗って処理していた。ところが、明治40年に、「琴」という港・村で、よそから来たイカ釣り船でコレラの病人が出ると、それが近くの船に移って死者が出た。同じようなパターンが賀谷、鴨居瀬などに広がった。よそから来たイカ釣り船が、近海でものを洗ったりイカを切り開いたりして、そこから対馬の島の漁村にコレラがうつるというわけである。この理屈に従えば、感染を予防するためには、近海の海の水は使ってはならない、イカを洗うのも沖に行ってからそこで洗えばいいということになる。そういっても近い海の水を使う愚かものがいるといけないから、ぼろ屑と石油を俵を買ってきて、ぼろに石油をしみこませて俵につめ、それに石をくくりついて海に沈めた。そうすると、ぼろに入っていた石油が浮き上がってきて海面に広がり、イカを開くことや洗い物などに使えなくなる。これが功を奏して、対馬ではコレラの発生を抑えることができた。これは、よそ者の船が病毒をもたらすのを防ぐことでもあった。よそ者の漁師は評判が悪かったという。

・・・これはこのコレラの流行を経験したある老人の物語である。まず、この「老人と海・防疫編」の話は、疫学的に言って成立するのだろうか?それが成立したとすると、日本の各地にある漁村と港が、コレラの流行の環となってウォーターフロントを形作り、そこでゆるやかな半常在ができているありさまが想像できないだろうか。