精神疾患の全成員調査―1940年・鎌倉郡

平塚俊亮・野村章恒「神奈川県某地に於ける全成員調査」『民族衛生』9巻5号、1941:436-453.
神奈川県の某村というのは、鎌倉郡の村岡村である。人口は1700人ほど。この村の精神病の全数調査に基づく論文である。精神病調査についてもっと早く読んでおくべき資料だった。日本学術振興会の第26小委員会の悪疾遺伝の調査研究が費用をだし、東大の脳研究所の三宅鉱一・吉益脩夫が指導した。著者の一人の平塚俊亮は、飲酒などの精神衛生関連の論文を1930年代から40年代に書いていること以外にはまだ調べがついていない。もう一人の著者の野村章恒は、慈恵医科で森田正馬に学び、のちに慈恵の教授となって森田の伝記を書いた森田学派の主要な人物である。また、絵画や文学と精神医学の関係についての著作や論文が多く、日本におけるモダニズムと精神医学の豊かな関係を担った人物の一人である。私は読んでいないが、エドガー・アラン=ポーと図版についての仕事は、本格的に分析してみたいと思っている。精神医学において、森田療法―芸術文学というジャンルと、優生学と精神疾患の悪疾遺伝調査というジャンルは共存しないように見えるけれども、実は同一の人物が行っているということも、よく意味は分からないけれども、心にとめておいた方がいい。特に人文系の研究者で精神医学を論じるものたちには、前者のジャンルはよくて後者のジャンルは悪いという単純な二元論がありがちだから。

野村がこの研究に協力したのは、もっと現実的な状況によるものである。野村は昭和10年に、鎌倉脳病院(昭和6年設立)の医師となり、村岡村の村医と校医をしており、すでに村の事情に通じていた。ある個人が精神病質であるかどうかを判断するときに、村民をよく知っている野村の知識は頼りにされるものであった。さらに、野村が勤務する鎌倉脳病院の経営者は同村の村長であったため、村長の人脈で役場や学校に通じ、村の有力者をたどることもできた。精神病の調査、特にその遺伝の調査をするには、村民の生活の深い暗部に入らなければならない。「秘密」という表現はぴったりしないが、人々が声を潜めて話すような内容にかかわることである。村にある精神病院の経営者が村長であったため、恰好の調査体制を築くことができたにちがいない。ちなみに、この体制を誇る部分で、それまでの一斉調査、上からの調査、未知の地に踏み込む調査の不完全性を批判しているのは、暗に、同じ時期に内村祐之アイヌ居住区、八丈島、三宅島で行った調査を批判しているのかもしれない。たしかに、三宅と内村の間には厳しい対立があったから、三宅派と内村派の対立があったのかもしれない。こういう「学派争い」の枠組みについては、私はある種のヒストリオグラフィカルな警戒心を持っていて、医者たちの内部での対立を軸に歴史を記述する、基本的にはインターナルな医学史の拡大版ではないかと思っているが、実際にそれが重要であったとしたら、その部分は受け入れて適切なウエイトを掛けて記述しなければならない。

この調査は、精神病実態調査が戦前の段階で直面していた難しさを教えてくれる。悪疾遺伝の調査は、「村民の一般感情を不快ならしめ、反感を抱かれる」という恐れがあった。(この不快感の質と構造も考えなければならない)実際、調査において、ある32歳の女子で農夫の妻が、質問に対して、「そんな事聞いて何すんだよ!」と憤怒してすごんだという。そのため、研究チームは、村とある種の取引きをすることにした。まずは、これは国策的立場からの調査であること。つまり、この村の悪疾遺伝を掘り起こして、村内・村外の結婚を難しくするような目的ではないこと。県当局と交渉して、保健調査地区として、村民からの意向によって、健康相談や育児相談などのサービスと抱き合わせで行うこと。精神病調査と並行して健康調査を行うことで、人々の深い秘密に触れる情報を取りだすことができるという発想である。