皮膚科学の模型像(ムラージュ)の日本への導入

石原あえか「日本におけるムラージュ技師の系譜―ゲーテを起点とする近代日独医学交流補遺」『言語・情報・テキスト』東京大学大学院総合文化研究科・言語情報科学専攻紀要、19(2012), 1-12.
「ムラージュ」というのは、医学教育で用いられる精密な病理標本を蝋で作成したものである。実際の身体から型取りをして、非常に写実的に形成して彩色する。ネットで調べたら、チューリヒに非常に大きな優れた博物館があるらしい。


この論文は、ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』から出発する。外科医を志向する主人公が解剖実習を学ぶ場面で蝋人形が出てくること、これはゲーテの知人のマルテンスなる医師が、彩色銅板画からムラージュによる三次元的表現を学んだことを反映していること、ドイツにおいてはこの技法はなかなか定着せず、定着したのは19世紀末であったこと、パリのサン=ルイ病院のバレッタなる医師が1889年の第一回国際皮膚科学・梅毒学会議でムーラージュを多数陳列したこと、ウィーンの皮膚科のカポシ(「カポジ肉腫」のカポシである)がこれを見て感銘を受け、ヘニングなる弟子をパリに派遣して学ばせて、1892年にウィーンで開かれた第2回の会議ではヘニング作のムラージュが陳列されたこと。

そして、このウィーンの展示を見たのが、当時ハイデルベルクに留学していた土肥慶三で、その効果を確信して自らもウィーンに移ってこの技法を学んだ。それを土肥が今度はブレスラウにもたらし、そこからベルリンに移ったという。ドイツにムラージュの技法をもたらしたのが日本人の留学生の土肥であったという。

土肥は東大に帰って、これを同郷(福井)の画家の伊藤有に教え、この伊藤からさらにムラージュの技法が職人的に教えられて他の大学の皮膚科に広まっていった。伊藤は東大の皮膚科のために2,500点のムラージュを作ったという。