漁村の疾病

漁民の歴史の本を読む。文献は、岡山達明『近代民衆の記録7 漁民』(東京:新人物往来社、1978)この本は、コレラの伝播のメカニズムを調べていて、そのヒントを得るために目を通してみた本で、いくつもの大きなヒントがあった。

この記事では、そのことでなく、水俣病の初期の差別の構造を書く。これまで知らなかったのがとても恥ずかしい、重要なことを教えてくれる話だった。知らなかったのは私だけだと思うけれども。

天草の乱の後の幕府の政策で、天草地方では一つの村の中で漁民と農民が異なった部落を形成し、両者の間には深い溝があり、農民たちは漁民たちを賤民視していた。また、狭い土地で人口が飽和していた天草からの漁民たちは、水俣に移住し、そこでも以前から定住していた農民たちとは隔絶された共同体を形成していた。同じ村の中でも、川一筋隔てると別世界になっていたという。

そのような閉鎖的な集団で、人々の生活に大きな影を落としていたいくつかの疾病がある。一つはハンセン病(土地の言葉で「こしき」と言われている)で、これに罹患した人々は村を追われるようにしてさらに孤立した部落を形成することもあった。家族のハンセン病の罹患が明らかになると、その家族は村の中での結婚などに影響を及ぼすので、患者の隠蔽も行われていた。もう一つが、孤立した共同体で幾世代にもわたって繰り返された近親結婚による(とされた)先天性の疾患である。だれそれの家では畸形の子供が生まれたり、唖(土地の言葉では「アチャ」というそうである)が生まれたりすると、その家は結婚を避けるべき忌まわしい「血」を持つ「統」だとされる。もう一つが、これはほぼ確実に比較的新しい明治以降のことだと思うけれども、結核であって、土地の言葉では「肺」である。ハンセン病、先天性の障害、結核は、こしきの統、アチャの統、肺の統などと呼ばれて、程度の差はあるが、これらの統の家の出身のものとの結婚は避けられていた。あるいは、どこそこの部落のものは、悪い血統ばかりだというような評判が立っていた。

すなわち、職業の分離と居住域の線にそって複雑なモザイクをなすように、病気を理由にする濃厚な差別が天草・水俣地方では(おそらく)長い時間をかけて形成されていたのである。まずハンセン病が決めてだったのだろう。 そして、明治以降に問題化した結核は、この伝統的な差別の構造の中に吸収された。かなりの確からしさでこの順序を確定できるのは、結核とハンセン病が同時にその罹患率を高めていくことは、まずありえない。 ミルコ・グルメクの「パソセノーズ」論でも触れられているが、結核に罹患するとハンセン病にはかかりにくくなり、両者は生物学的に両立しない病気だからである。 (えっと、しかし、これは本当に本当ですか?) 

そして、水俣病が昭和20年代の末に発生した(最初の公認患者は昭和28年)のは、この空間であった。水俣病が漁業に携わるものがかかり、すくなくとも初期は漁業部落を狙い撃ちにするように多発したことも、この職業-地域による差別の構造を強化した。水俣病が出た患者の家は共同体から隔絶され、患者とその家族はすさまじい恐怖と差別の対象となった。患者の家の前を通るときには人々は伝染を恐れて息を止めて走り去って唾をはくというありさまだった。(おそらく結核対策に由来する行為だろうと思う。)昭和34年ごろからチッソの責任というパラダイムが民衆の中に現れるまでは、水俣病は「こしき」「アチャ」「肺」とならぶ、もうひとつの「統」に基づいて差別される病気だったのである。

昭和49年に行われたインタビューで、昭和2年生まれのFさんという男性は、このような「統」を大切にするしきたりの閉塞と矛盾を次のように言っている。こしきや肺の「統」を避ける結果、血族結婚をすると、「一族の悪か因子が結合すれば片輪が生まれてくる。だから唖ができたり、知能不足のができたり。(中略)こしきの統を嫌って、こしき以上の片輪が生まれとるわけたい」(225ページ)そして、彼が言うところの「今の結婚」について、「どこの馬の骨と一緒になるか分からんばってん、これがかえって幸せな面もありますとな、優生学上言えば」と言っている。

・・・優生学上、ですか。なるほど・・・そうですか。典型的には都市で出会ったそれまで見知らぬ男女が恋に落ちて結婚するような、流動性が高い社会こそが生物学的に健全であると正当化する機能を持つ優生学か。これは、ちょっと虚を突かれました(笑)