雑誌『優生学』より

大正末期から戦中期まで20年間にわたって刊行された雑誌『優生学』(『ユーゼニックス』として創刊)の復刻が不二出版から刊行され始めたのでチェックした。

 

優生学』は、兵庫県の香櫨園(現在は西宮市)の医師である後藤龍吉が始めた雑誌である。1924年の1月号が創刊号で、当初は『ユーゼニックス』と称したが、1925年の3月号から『優生学』と改称し、1943年の4月号まで刊行された。慶應図書館のデータによると、『現代の医学』『実験医学』『大阪医事新誌』など合計で8つの雑誌とともに『日本臨床』に統合されたようである。今回の復刻は1924年1月の創刊号から1927年12月号までで、この期間については原則として月刊であった。この雑誌については、横山尊が2011年の『生物学史研究』に論文を発表している。(http://bit.ly/1cr1JkX 未見)

 

創刊の段階では、後藤個人が持つ優生学に対する熱烈な思いが先行して、万全を期した編集と運営にはほど遠かった。創刊号の巻頭言では、日本の社会についての危機感と優生学に対する熱烈な期待が語られている。<普選が始まり、宗教は知識階級では形式の殿堂すら消え、教育は行き詰まり、芸術はただ玩弄され、社会と個人は歴史上で最悪の乱離と悲惨のうちにあるなか、優生学は吾等の血・吾等の涙であり、本質的に世界を改造する唯一絶対の科学的信仰である!>という言葉は、深い危機感と熱烈な使命感を表明している。使命感が先行して、原稿については、さまざまな種類のものが掲載されており、手当り次第という感すらある。たとえば創刊号から192410月号までは「印度性典カーマスートラ」というタイトルで「カーマ・スートラ」の翻訳が連載されているが、そのかなりの部分が性的に露骨なために伏字にせざるをえず、3月号と4月号にいたっては、ほとんどが伏字であり、「大好評を博しつつある『カーマスートラ』、ご覧の通りのありさまです」と自嘲的に語っている。また、創刊号からしばらくは、一枚のヌード写真や絵画を掲載するページが設けられており、当時の基準でいえば際どい写真であっただろう。(添付参照) 

 

カーマ・スートラとヌード写真の解釈は少し難しい。優生学の広がりを示すという側面なのか、同時代の別の潮流の影響なのか、優生学とは関連がない後藤個人の趣味なのかということがよく分からない。雑誌『優生学』は、生殖から切り離された快楽としての性に好意的な態度をとり、避妊はもちろん中絶にも一定の理解を示しており、避妊を示唆したエッセイを掲載し(それが掲載された2年9月号は発売禁止になった旨を10月号で詫びている)、アメリカの<バーナー・マックファデン>の少年向けの性教育の文章が連載され、コンドームやペッサリーの広告を掲載し、疾病を理由にした中絶が適当な事例を紹介する大部の論文を連載している。雑誌全体としては、優生学のオプションの中で、個人的な健康の維持、結婚相手の選択、避妊、中絶、断種という優先順位で重視しているという印象があり、その中で法律や当局の規制などと微妙な関係を保ちながら、優生学的に正しい性のありかたを模索しているようである。だから、理屈として考えると、性の快楽そのものは好意的に捉えていると考えることができる。しかし、カーマ・スートラの連載もヌード写真の連載も1巻の10月号で終了しており、性の快楽を直接的に賛美する項目は、比較的すぐに放棄されていることも考慮に入れなければならない。この時期は「エロ・グロ・ナンセンス」の時代でもあり、そちらに影響されたということも考えなければならない。

 

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