『ルルドの群集』と医学・宗教・治療

J.K.ユイスマンス『ルルドの群集』田辺保訳(東京:国書刊行会, 1994)よりメモ。この書物の取材をし、執筆し、仕上げていたときは、ユイスマンスが口腔癌で死に至る終末期であったが、ユイスマンスはルルドに何回か訪れて取材をしている。

 

19世紀後半のルルドは奇跡的治療の中心地として著名となり、医学と宗教が、奇跡という伝統を使いながら大衆社会の中でどのような関係を持つかという問題を実験室のように示してくれる素材となった。オクスフォードの医学史・身体史の研究者であるルース・ハリス先生が深い洞察を込めた著作を書き、私が知る範囲では英語圏の標準的な書物になっている。ハリスの著作以外に、手に入りやすい三つの必読文献があり、一つはゾラの『ルルド』(1893)、もう一つは、もともとはゾラに見出された作家であるユイスマンスがゾラと対立した解釈を提示した『ルルドの群集』(1906)、そして三番目がアレクシス・カレルの『人間、この未知なるもの』である。ゾラの『ルルド』は英訳で読んだ。カレルは、フランスからアメリカに渡った実験医学者で、ロックフェラー研究所での研究によりノーベル医学賞を受賞している。

 

32-33 水と聖母の二つの連合。創世記の天地創造のときに水の上に漂っていた聖霊と、ルカによる福音書でマリアが懐胎したときに漂っていた聖霊。ここから水と聖母を連合させるようになる。

51 魂は、蝋燭の中にその霊的な力をしみいらせる。これは「ラシャ大佐の実験」で、自分の力を無生物・無機物に移す試みと同じである。

ルルドの治癒力の中枢は「泉」にあるが、そこから水をひいた水浴場があり、そこでヨーロッパじゅうから難病に悩まむ患者が水浴びをする場面の記述は、ゾラの自然主義を経験した作家であるといってよい。患者が入ったあとの水は、汚くよごれたものになり、まるで食器を洗ったあとのたらいのようになる。血膿がしたたる傷口や生理中の女性が入るのだから。

医学調査局の検査が良心的で、奇跡を安売りしようとする人々からの訴えをてきぱきと退けていくありさまが描かれている。

ルルドの街は、人々がヨーロッパじゅうから押し寄せ、重要な祝祭の日には4,000人の人口の十倍以上の人々がやってくる。彼らは俗悪で観光やピクニックに来るか、えせの信仰心を誇示しようとしている人々である。このありさまをユイスマンスは辛辣に描いている。

医学史的にもっとも興味深いのは11章になる。ルルドにおいて難病治療という現象が起きていたことは、全体として批判的な側も認めており、それは自己暗示と信仰によるとしていた。ゾラのような作家・評論家とシャルコーのような実証主義の医者たちの主張である。それに、具体的に事例に即して反対している箇所である。ユイスマンスは、自己暗示ではなく、「気もそぞろになる神の秘儀、パロディめいた滑稽事も許容され、それを繰り返させる神の秘儀」であるというが、じつは、これがよく分からない。

従心の衰退について。近代社会にはいって、人々が服従心を失ったと嘆く箇所がある。そこで、何が服従心を失わせたかというと、その筆頭は、もちろん軍隊であるという。軍隊に入ると、上官に対する反抗的な精神、しかしそれを隠す技量を身に付けてくるという。キリスト教の保守・伝統主義が軍隊や徴兵に反対する文脈もあった。

奇跡を受けたベルナデットについて。ゾラはシャルコーに吹き込まれて神秘的でヒステリーだといったが、彼女はどちらでもない。素朴で無学で頭は良くない、つつましい少女である。