コレラによる東大卒業式の延期・1882年(明治15年)

 

日本の出版界の麗しい習慣だが、全集や講座などが順次刊行されるのに合わせて、「月報」などと銘打った小さな刊行物が添えられる。学者が書いた珠玉の随筆である「学海余滴」が掲載されることが多い。新しい全集に、知人が書いているのを読むのも楽しいが、古い月報を読むのは、骨董品との出会いと似た感興がある。月報だから、独立単体で入手することは少なく、古い全集を借りたり古書で買ったりするときについている古い月報や付録を読むときである。先日、吉川弘文館の「人物叢書」の『加藤弘之』を大学図書館から借りたら、「付録」がついていて、1961年の刊行だから、ほぼ私が生まれたころに刊行されたものである。A5を二枚折にしたささやかな刊行物が私とともに半世紀のあいだこの世界を生きてきたのかという小さな思いがあった。その付録は、西田長寿「東京大学卒業式における加藤弘之の訓辞」『人物叢書』付録第29号(1961)という文章を掲載している。1882年(明治15年)1028日に加藤弘之が東大の卒業式で行った訓辞が掲載されていた。東京日日新聞の111日号からの引用である。官僚主義の思想家として、自由民権への攻撃的・揶揄的な態度が興味深いとのことであるが、それよりも面白いことがあったのでメモ。

 

この卒業式は、1028日に行われたが、卒業生は前学期の7月に卒業したものたちで、毎年の例によれば、710日に学位授与式を行うはずであった。しかし、今年は「悪疫流行せしがために」、10月末まで延引することとなったという。

 

この悪疫というのはもちろんコレラである。1882年(明治15年)のコレラは、色々な点で通常の流行とは異なった姿を示しており、私は日本のコレラ流行を考える上での鍵を握る現象だと考えている。通常のコレラ流行は「襲来型」と呼ばれるもので、外国からもたらされて流行が始まり、その流行は年内には終わるものであった。その場合、コレラはあくまでも外国から日本に侵入するものであり、日本はもともとはクリーンな地域であって、コレラに対して「被害者」の立場に立つことができた。国内の初発患者は当然のように外国と貿易が行われる港であるか、その港まで連鎖を辿ることができる症例であった。土地としては関西に多く、大阪・神戸はコレラのメッカであり、東京と横浜に較べてはるかに多くの患者を出していた。東北はコレラがそもそもまれな地域であったし、患者は多くならなかった。コレラ流行のネットワークから抜けだすのも早かった。明治期にどの府県でコレラが流行したということを、府県を北から順次並べたうえで星取表のようにしてあらわすと、北海道や東北ではあまり流行せず、それが終わるのも早かったことがわかる。(図参照) 

 

しかし、1882年の流行だけは、コレラは違う姿を見せた。それは越年流行であり、1881年の12月には千葉、静岡、東京などで患者が出続けていた。その「くすぶり」が季節的な変化によって燃え上っていくような形で、初夏から夏にかけて大きな流行があった。東京では529日に第一号の患者が出て、合計すると日本で最も多い約6,500人の患者が出た。その次に患者が多かったのは宮城であり、約4,000人の患者が出た。東北に患者が出ることはそもそも比較的珍しいことであった。しかも、都市や人口集積地や主要な港というよりも、リアス式海岸の沿岸の漁村から漁村を舐め尽すようにコレラが流行していった。その姿は、まるで襲来型ではなくて常在型の感染症になったかのようであった。1882年のコレラ流行は、インドから東南アジア・東アジアのコレラのネットワークの外部にいて頻繁にその襲来を受けていた日本が、その内部に引き込まれたかのような印象を与えるものであった。いったい何が起きたのか詳細には分析していないが、その後の日本はコレラの常在地にはならず、ネットワークの「外部」にとどまることができた。

 

余分なことも書いたが、ポイントは、この年のコレラの流行で東大が卒業式を延期した事を憶えておこうということ。

 

 

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