北杜夫『青年茂吉―「赤光」「あらたま時代」』(東京:岩波書店、2001)
北杜夫『壮年茂吉―「つゆじも」~「ともしび」時代』(東京:岩波書店、2001)
北杜夫『茂吉彷徨―「たかはら」~「小園」時代』(東京:岩波書店、2001)
北杜夫『茂吉晩年―「白き山」「つきかげ」時代』(東京:岩波書店、2001)
斎藤茂吉は著名な歌人であると同時に、戦前の東京で有数の精神病院の院長でもあった。茂吉が精神医学の世界に入ったのは、養子縁組の結果である。茂吉は山形県の南村山郡金瓶(かなかめ)村(現在の上山市金瓶)の守谷伝右衛門の三男に生まれた。茂吉を教育する資金がなかった守谷家は、同郷出身で東京の浅草で医師を開業していた斎藤紀一の次女・てる子の婿候補として茂吉を斎藤家の養子とした。その後、斎藤は、東京の青山に青山脳病院を開業したため、茂吉も精神病学を修めて、斎藤紀一の後を継ぐコースが敷かれ、茂吉はその路線に乗って人生を過ごすことになった。文学者・茂吉の伝記はそれこそ汗牛充棟で、精神病医としての茂吉についても岡田先生の著作がある。しかし、茂吉には詳細な日記や書簡があって岩波から刊行された36巻の全集に含まれており、大正15年から昭和2年にかけての部分に、全焼したあとの青山脳病院の再建の方針、新築病院の経営上の問題、患者の脱走などに関連する警視庁との交渉、院長の交代の経緯など、東京で私立の精神病院を経営する上でのさまざまな事実が書き記されている。これは、全集の日記を読んで整理しなければならない。
北杜夫の記述は、何らかの精神疾患の影響で「壊れた」箇所もところどころにあるが、面白い情報が多い。いくつかのメモ。
茂吉は東大の医局時代には白山の遊郭で相当な女遊びをして、そこで学んだコンドームを崇拝的に愛用していたこと。長崎の教授時代には丸山で遊ぶ学生にコンドームを盛んに進めていたこと。1-17
茂吉は妻とは水と油の関係であり、新婚時には暴力をふるうこともまれではなかった。妻のてる子がたまりかねて父親の斎藤紀一に相談したところ、あれは大人物だが常人と思ってはいけない、患者だと思え、そして自分は看護婦だと思えと言われた。1-45
北杜夫が経験した戦後の精神病院の話。多くは木造で昔風の「瘋癲院」の面影があり、特有の臭気がした。これは、入浴も簡略に済まされていた患者たちの垢とフケの臭いであると言われていた。 1-59