医学史研究の過去・現在・未来―草稿(01a)

医学史研究の過去・現在・未来―草稿

 

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20世紀前半から後半にかけての日本の医学史研究の大きな特徴の一つに、医学のそれぞれの分科における第一人者が、それと同時に優れた医学史の研究者であるという点があげられる。偉大な医学者が重要な医学史家を兼ねる特徴と言ってもよい。この特徴は、明治以降に日本の大学に近代医学が導入された時期に確立し、20世紀の中葉から後半まで継続している。

土肥慶蔵(1866-1931) は、ドイツに留学したのち、1898年に東大医学部の皮膚病学梅毒学の教授となった。皮膚科学・皮膚病学の重要な発見をするとともに、梅毒の歴史において『世界黴毒史』(1921)などの著作をしている。1927年(昭和2年)の「梅毒の起源についての研究」は学士院賞を受け、富士川游の『日本医学史』が1912年に受賞して以来、医学史としては二回目の学士院賞であった。土肥と同郷の呉秀三1865-1932)は、ドイツ・オーストリアに留学して精神医学を学び、1901年に東大医学部の精神科の教授となった。近代精神医学の基礎を築いたと同時に、シーボルト研究(1896)、シーボルト『江戸参府紀行』の翻訳(1927)、明治以前の日本の書物から精神医学的な事象を探った「磯邊偶渉(1916-25)の連載などの医学史の業績をあげて、東大精神科などにおける歴史研究の重要な基礎を築き、その精神は秋元波留夫(1906-2007)や松下正明(1937-)などの東大精神科の教授にして精神医学史の研究者に継承されている。

土肥慶蔵や呉秀三が、大正期から明治期に活躍した近代医学の第一世代における医学と医学史の両立を象徴するとしたら、解剖学者で東大教授を退官後に順天堂大学の医史学の教授となった小川鼎三(1901-1984)、細菌学者で大阪大学教授の藤野恒三郎(1907-1992)、衛生学者で東京大学の教授の山本俊一1922-2008)、ウィルス学者で千葉大学教授の川喜田愛郎(1909-1996)などは、昭和の戦後期における医学と医学史の両立を象徴する。小川は東大の解剖学教授で1951年に解剖学の研究によって学士院賞を受賞し、東大を退官後に順天堂で医史学研究室を立ち上げてその教授となった。順天堂大学の医史学研究室が日本の医学史研究の拠点となったのはこれを機とする。藤野は腸炎ビブリオの発見によって数々の賞に輝き、阪大の微生物病研究所の所長をつとめたが、それと並行して多くの医学史研究の著作を世に問うた。藤野の『日本細菌学の歴史』(1984)は現在でも標準的な通史である。山本も東大教授をつとめるとともに、コレラ、性病、ハンセン病の歴史についての本格的な著作を数多く執筆し、その中でも『日本コレラ史』(1982)は不朽の価値を持ち続ける著作である。川喜田は指導的なウィルス学者であるとともに、『近代医学の史的基盤』(1977)は、現在でも日本語で読める西欧の医学史の通史としては最高の水準の著作であり、富士川・土肥についで医学史としては三回目の学士院賞1979年に受賞した。小川、藤野、山本、川喜田らは、一流大学の教授であり傑出した業績を持つ医学者であると同時に、医学史の研究において指導的な著作を書いた研究者であった。20世紀初頭から1980年代までの日本の医学史研究には、医学の指導者たちによる医学史研究という潮流が確かに存在した。

それとは異なった傾向を持つ研究が、医学の体制に批判的な医師たちによる医学史研究である。これは、医療の内部からの批判を反映した医学史研究であり、その著名な人物としては、社会医学の川上武と精神医学の岡田靖男を上げることができる。彼らは、医学の体制の中のエリートの位置につかない医学史の研究者であったが、優れた仕事を数多く発表して、現在の医学史研究の礎石の一つをなっている。(以下次号)