「医学史の過去・現在・未来」01b 医学史の過去―古代ローマから1980年代まで

「医学史の過去・現在・未来」 の過去の部分です。以前にアップした分を大きく改訂して、感じでいうと8割ほど完成させましたが、まだ草稿段階です。引用しないでください。 コメントを頂ければ幸いです。

 

医学史の過去―古代ローマから1980年代まで

 

 過去の医学を知る営みは長い歴史を持つ。ローマ帝国に生きたガレノス(129-c200)が、紀元前5世紀に活躍したヒポクラテス以降の医学の学派を検討するとき、そこには500年以上にわたる一つの歴史記述がある。過去の医学テキストに英知が宿っていると考えることは、もちろんガレノスにとどまらず、ルネサンス期のヨーロッパでも江戸時代の日本でも医学の大きな部分を占めていた。16世紀から17世紀のヨーロッパでは、1000年以上もの時間を遡ったヒポクラテスアリストテレス、ガレノスといった古代の医者のテキストが編集・校訂・解釈されて、ヴェサリウスの解剖学、ハーヴィーの血液循環論、シデナムの経験主義などの重要な背景となった。江戸時代の医師たちにとって古代中国の医学書は標準的な教科書であり、古方派の医師である山脇東洋(1705-62)、永富独嘯庵(1732-66)、吉益東洞(1702-73)などは、1500年以上前の後漢期の作品である『傷寒論』を最重要の著作として勉学し、その中で、日本初の人体解剖のような実証的な医学や蘭学との連結などの近代的な装いを持つ医学を作り上げた。18世紀末に設立された幕府の医学館の大きな業績は、唐代の孫思邈の『千金翼方』や平安時代丹波康頼の『医心方』などの大規模な著作を編集・校訂・刊行したことであった。過去の医学を知ること、過去の医師を直接の師として、あるいは論敵として過去の医学に対することは、長い期間にわたって医学を動かしてきた重要な要素であった。

 過去の医学が直接の師や論敵ではなくなって、現代の医学と過去の医学の間に歴史性が介在するようになるとともに、医学史と呼べるものが成立する。ヨーロッパにおいては、医学が急速に変化しながら、歴史に大きな関心が寄せられた時代である19世紀から20世紀にかけて医学史という学問が成立し、カール・ズードホフ(1853-1938)がその創設者の栄光を担っている。日本においては、ズードホフとほぼ同じ時代に生きた医師である富士川游(1865-1940)が医学史の確立者であり、富士川の直接・間接の影響のもとに、20世紀前半の医学史研究が行われた。

 その大きな特徴の一つに、医学のそれぞれの分科の第一人者が、それと同時に優れた医学史の研究者であるという点があげられる。土肥慶蔵(1866-1931) は、ドイツに留学したのち、1898年に東大医学部の皮膚病学梅毒学の教授となった。皮膚科学・皮膚病学の重要な発見をするとともに、梅毒の歴史において『世界黴毒史』(1921)などの著作をしている。1927年(昭和2年)の「梅毒の起源についての研究」は学士院賞を受け、富士川游の『日本医学史』が1912年に受賞して以来、医学史としては二回目の学士院賞であった。土肥と同郷の呉秀三1865-1932)は、ドイツ・オーストリアに留学して精神医学を学び、1901年に東大医学部の精神科の教授となった。呉は、近代精神医学の基礎を築いたと同時に、シーボルト研究(1896)、シーボルト『江戸参府紀行』の翻訳(1927)、明治以前の日本の書物から精神医学的な事象を探った「磯邊偶渉」(1916-25)の連載などの医学史の業績をあげて、東大精神科などにおける歴史研究の重要な基礎を築いた。

 土肥や呉が、大正期から明治期に活躍した近代医学の第一世代における医学史を象徴するとしたら、昭和の戦中期から戦後期にもよく似た医学史研究が存在する。すなわち、一流大学の優れた教授が同時に優れた医学史家であるというパターンである。血清学者で東大教授の緒方富雄(1901-1989)、解剖学者で東大教授を退官後に順天堂大学の医史学の教授となった小川鼎三(1901-1984)、細菌学者で大阪大学教授の藤野恒三郎(1907-1992)、衛生学者で東大教授の山本俊一1922-2008)、ウィルス学者で千葉大教授の川喜田愛郎(1909-1996)などがこの時期の医学史研究を象徴する。彼らはそれぞれの分野や主題について現在でも標準的に参照されている優れた仕事を遺した。その中で、川喜田の『近代医学の史的基盤』(1977)は、日本語で読める西欧の医学史の通史としては最高の著作であり、富士川・土肥に次いで医学史としては三回目の学士院賞1979年に受賞したことだけ記しておく。

 20世紀の後半には、それとは異なった狙いと体制を持つ重要な医学史研究が現れた。彼らが生きている時代の医学の体制に批判的な医師たちによる医学史研究である。この潮流は、市民運動と密接な関係をもち、政治思想的には共産主義社会主義に近い立場をとる医学者・医療者が軸となって進展した。最も著名な研究者は、大阪の丸山博(1909-1996)・中川米造(1926-1997)と、東京の川上武(1925-2009)岡田靖(1931-)である。丸山・中川は大阪大学医学部に籍をおく研究者であり、丸山は衛生学の教授、中川は阪大で「医学概論」を担当する教授であった。丸山は衛生学研究を通じて社会の貧困層の健康問題、特に大阪の貧困地区の乳幼児死亡問題を分析して、それを貧困家族と都市環境の構造的な問題として捉え、医療を含めた日本の社会体制が彼らの健康の問題に応えていないことを明らかにした。1960年(昭和35年)に、丸山たちは、日本科学史学会の年会において「緒方洪庵生誕150年記念・医学史研究会」を開催し、1961年には『医学史研究』が季刊で発信を始めた。その創刊号の巻頭言は丸山が書き、冒頭には中川が「いわゆる<医学の危機>について」という時事性が高い論文を寄稿している。1965年には『日本科学技術史大系』の第24巻・25巻として、『医学1』『医学2』が刊行された。幕末の開国から1960年近辺までの日本を対象に、医療と社会との関連を示す資料を選択・抜粋し、優れた解説をつけた資料集は医学史研究の快挙であった。

 川上武(1925-2009)は、生涯に50冊を超える医療に関する著書・編書を出版した戦後日本を代表する医療評論家・医学史の研究者であった。川上は、戦後に影響力があった武谷三男の科学論や野呂栄太郎羽仁五郎などの講座派の社会科学に影響されて医学史と医学論を著述した。1961年に『日本の医者』が出版され、1965年には『現代日本の医療史』が出版された。両著は、日本の開業医制度に注目し、その現状の構造分析と歴史的な分析という形で世に問うたものである。川上は大学に所属を持たない在野の研究者であったため、川上自身が「サークル主義」と呼んだ私的な研究会が研究発表の場であった。医局制度という大学教授への権力の集中を批判した川上にふさわしく、川上の医療史研究は市民運動としての側面を力強く表明していた。『医療社会化の道標―25人の証言』(1969)は、労働者診療所、無産者医療運動、朝鮮農村衛生調査、農村医学などに活躍した医師たちの証言を記録した書物であった。

 しかし、彼らが築いて1960年代に重要な成果を上げた医学史研究のエトスは、次第に時代との歯車が合わなくなった。おそらくこの過程は1980年代には始まっており、1990年代にはその問題は彼ら自身にとって鮮明になっていた。丸山・中川のあとの幹事をつとめた小松良夫が『医学史研究』に1997年に書いた文章は会員数の減少や原稿が集まらないことなどを訴える苦慮に満ちたものである。1996年には『戦後日本医療史の証言』において川上が自らの活動を総括して部分的には自己批判する文章を世に問うている。同時代の一方で、川上らとよく似た形で在野の研究者として日本の精神医療の歴史研究を確立した岡田靖雄(1931-)は、現在でも史料蒐集と学会報告を精力的に行って尊敬を集めていることも追記しなければならないだろう。