1903年の女医論―「分離された領域」における女医の進出

高田耕安「女医に就て、並にモル氏著医人道義学に就て」『医談』79, 1903: 9-12.

奨進医会なる明治の医学団体の『医談』に掲載された女医についての論考。奨進医会は富士川游が関与した団体で、医学史や欧米の医学論を盛んに紹介した。その初期の雑誌である『医談』は、後に『刀圭新報』となり、これが現在も刊行している『日本医史学雑誌』に引き継がれるため、医学史にとって重要な雑誌であり、ある意味で日本の医史学の原基の意味合いがある。それと関係があるのだろうが、前田久美江編『現代医療の原点を探る―百年前の雑誌「医談」から』(2004)という書物があり、そこでは『医談』の初期の論考が選択され現代文にリライトされているという。

高田耕安は1861年生で1945年没。香港のペスト流行において青山胤通が罹患したときに派遣されたこと、日本に19世紀末の西欧の結核の転地療法を持ち込み、湘南にサナトリウムの南湖院を設立した医者として名高い。

 

女医が高く評価されていたこと、そしてそれは女性特有と考えられた特徴が期待されたからだという、「分離された領域」における女性の社会進出を鮮やかに示している短文。高田は女医を高く評価しており、自分が経営する内科病院でも積極的に女医を採用している。東京の本院でも湘南の支院でもと書いているから、サナトリウムで女医が働いていたことがあるのだろう。その理由は、男子の医者は進取的であることが特徴で、女子の医者は保守的であることが特徴であるからである。保守的であるという言葉は今と多少語感が違い、医療の中でも保護やケアにあたる部分において男子には見られにくい力を発揮するということである。そのため、入院患者を保護する当直医として女医を採用し、これが非常に適当であったという。高田は、日本女子大学に医学科をおき、女子を対象にして医学専門学校程度の教育を行うといいだろうと提案もしている。東京女子医科大学の全身の東京女医学校の設立が1900年だから、もう一つ作ろうという議論だろうか。日本女子大学に医学校があったら、それはそれで、とても楽しいことになった気がする。女子大が持つ医学部を持つ総合大学になるというのだから。作ればよかったのに(身勝手)

 

アルベルト・モルの「医人道義学」に触れる議論もしている。この関連も読まないと。