田村幸雄・熊田正春編集『中国東北(旧満州)における民族・民俗と精神病(旧満州医科大学精神神経科教室業績集)』(n.p., 1983)
満州医科大学の精神神経科教室は、1914年につくられて、1945年の敗戦とともに消滅した。満鉄が奉天に「南満医学堂」を設立したのが1911年、1914年に精神病学の教授として林道倫が招かれたのを教室の発祥と考えることができる。林は1年足らずでやめ、1915年に大沢宏が教授となったが、これもすぐに辞めた。1917年に就任した大成潔が初めての本格的な教授となり、1939年に急死するまで教室をけん引する。1939年には同じ教室の田村が教授に昇進し、1945年の満州医科大学の消滅までつとめる。満州医科大学は、日本の大学制大学(ってなんだろう?)にあたる本科と、日本の医専程度の教育をした専門部の二つの課程を持っていた。前者は入学の民族的な制限はなかったが、大部分の学生が日本人・少数の漢人であった。後者は講義などは日本語であったが、日本人の入学は禁止されており、学生の大部分は漢人で少数の蒙古人が
東大から昭和10年に来た田村が驚いたことは、教室に脳の標本が豊富であったことであった。東大では精神科で死んだ患者でも、「病理とやりあって」、やっと標本が手に入るというのに、満州では病理解剖された脳を精神科が保存していた。田村は「宝の山に入った」と思ったというし、そのため、大成の時代は脳組織の病理学が研究の主体であった。しかし、田村自身が教授となった時に、脳の病理だけでなく民族と社会・文化を積極的に含む方向に研究の舵が切りなおされた。これは、個人的には、田村が、東大の内村研究室の秋元からアイヌのイムの調査のことを聴いたということがあり、全体としては、日本の大学の精神医学が、帝国の(Empireの)精神医学の姿を取る方向に進んでいたということである。
帝国の精神医学というのは、研究の具体的な方向性においては分業がなされながら、共通の関心を持とうとしていることである。たとえば、北海道大学はアイヌの精神病、満州医科大学は満州の精神病、九大と台北大学は台湾の精神病について調べるというような分担が行われる。その一方で、それぞれの大学の精神科が、相互に類似した概念や意識的に統一された方法論を用いるような標準化も行われていた。内地の大学ではメスカリンを用いた自家実験が行われ、満州医科大学では漢方薬として用いられると同時に、花と実に麻酔様・精神錯乱様の効果がある洋金花(チョウセンアサガオ)の自家実験が行われるというのも同じパターンである。日本の帝国の各地から知識を収集される仕組みである。
田村・熊田が編集した論文集の中で最も価値が高いのは、郭文泰による「満州農村に在住する漢民族の精神医学的調査」であろう。これは、国民優生法にともなって1940年から行われた一連の精神病調査と同じ脈絡で行われた、満州地方における精神病調査をもとにしている。この論文はもともとは原著論文となるはずであり、かなりのところまで仕上げられていたが、終戦の混乱の中で投稿できず、また著者の郭は早逝してしまった。そのため、田村の手元に残った郭の論文の手書きの原稿をもとにして、田村が書き直しながらまとめた論考である。