医学実験の対象として家族を選ぶこと:1927年の大原八郎の野兎病の実験

『正木不如丘作品集』全7巻(1967)に目を通す。とても面白い作品が多くて、本来探しているものではないのに、つい読みふけってしまう。解説などが全くないので、その作品がいつ書かれたかということが分からないが、「実験動物供養」という戦後に書かれた作品の中の「兎」の部分に、野兎病の菌を発見した大原八郎と会った時の逸話が記録されていた。この記述が複雑で面白い。

 

野兎病の研究の中で、大原は患者の淋巴腺の膿を彼の夫人(リキ)に注射するという人体実験の方法で研究したという。大原による病原菌の発見が新聞に報道されたのは昭和2年の4月から5月のことであるから、これよりも少し前のことであろう。ただ、この記事を正木が書いたのは戦後だから、ニュルンベルク綱領や、あるいはヘルシンキ宣言などによって、医学実験の対象として人間を選ぶときの倫理性が議論されるようになってからである。正木の記述には、倫理に反したことを行った大原への戸惑いが盛り込まれている。いやらしいことを言うが、この感情が、どの程度戦後に、そしてニュルンベルクの後に「作られたもの」であったのかは、冷静に調べる必要があるだろうが、それはここではそれほど問題にならない。

 

大原が野兎病の実験に妻を使ったことは、ニュルンベルク以降の倫理規範に反している。しかし、それだけではない。昭和2年当時の新聞記事を読むと、科学の大義に自己を犠牲にして自ら実験台になることを申し出た徳高い夫人という枠組みで捉えている。この背景には、自己を犠牲にして大義に殉ずるという、当時の日本社会の価値観があったことは間違いない。さらに、正木がのちに大原に会ったときの様子を伝えた文章は、大原夫人の自己犠牲だけでなく、大原自身がのちに癌になったが、治療もせずに祖国のために身を投げ出したありさまが描かれている。科学であれ国家であれ、何らかの「大義」と、個人の生命の価値とを較べて、前者を選ぶという文化の習慣の問題として捉えられていることに注意するべきである。正木の文章は著作集第一巻で、以下の通りである。

 

大原博士は野兎病にかかっている患者の淋巴腺のうみを最愛の夫人に注射して、発病させて研究を続けたのであった。そして、その当時は野兎病の治療法も決定しておりはしなかったので、大原夫人は危篤状態にまで陥った。

 わたくしはそのことを新聞で知った時、学者としての好学心と、人間としての感情との、どちらが尊厳であるかに迷った、ただ呆然自失して、見舞状のかきようがなかったことを今でも忘れられない。その後、数年を経て大原家を訪れた時、すっかり健康を回復した大原夫人を前にして、博士に、「あの時は本当に心配しましたよ」と自分ながら恥ずかしいほどのお座なりをいったのであったが、当の博士は、

「あの時はこいつの頭の毛がみんなはげちゃってね」

といい、婦人はただ無言で微笑していただけであった。私はしみじみ人の世の悲しさを思って、あとは何も言えなかった。それも今から15,6年前のことになるが、その時の博士の栄養所歌があまりにもよくなったので、夫人がちょっと席をはずした時、

「君、なんだかやせたじゃないか」

ときくと、

「うん、誰にも話してないのだが、肝臓あたりの癌なんだよ、どうせ手術したって五十歩百歩だから、こんな服を着こんで、あばれるだけあばれておさらばときめてるんだ」

博士は、敗色濃厚になっている祖国を守るための団長服の前ボタンをはずして、肝臓あたりをそっと撫でていた。それから3,4か月後、博士は亡くなった。わたしには何も彼も、なぞのままである。